Act.1「未来へと続く日常」

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1月中旬。一年で最も寒い時期。
まだ、朝も早く、登校する生徒もまばらな午前7時。
学校正門から入ってすぐ右側にあるトタン板屋根の自転車置き場。

ブレザーと同系色である紺色のコートを羽織った長身の生徒が自転車ですいっと屋根の下に入り込んできた。
中田伸道。
稔之と同じクラスの体育科の生徒。
そして、バスケ部の主将でもある。
当然、稔之とは一番親しい友人だ。
自転車から降りて、スタンドに足を引っ掛けた時、同じ様に中田の真横にバスケ部員である同級生が自転車を止めに来た。
「なあ、塩見。
 最近、稔ってバイク通学してんのか? 
 こないだ、塩見ん所のアパートで稔のバイク見たぞ」
白い息を吐きながら、中田は尋ねた。
塩見と呼ばれた生徒は首を傾げながら
「・・・みたいだぜ。
 急に年末から、『お前ん所にバイク止めさせろ』
 って稔が頼みに来たんだよ。
 えらく必死に頼むから思わずOKしちまったけど、
 やっぱヤバイよな。
 バレて、出場停止とかなったら洒落にならねー」
と自転車の籠から鞄を出した。
聞いた中田は、やっぱりなというような表情をして、
額に手を乗せて軽く溜息をついた。
「出場停止とか、以前に事故とか起こしたら
 意味ないよなあ・・・」
「だろ?俺も言ったんだけど・・・
 中田からも言ってくれないか?
 中田の言う事なら稔も聞くかも知れないぜ」
言うと塩見は、コートの裾を翻して、小走りに体育館へと行ってしまった。
塩見の言うように、美男子ではないが、人の良さそうな顔をした中田は、
男女問わず、信頼を寄せられる雰囲気を持っていた。
中田は短く刈り上げた髪に手をやりながら、最近の稔之の様子を思い浮かべた。
●挿絵1
『確かに、この頃ちょっとおかしいよなあ・・・』
そして飄々とした足取りで、中田も体育館へと向かう。

着替えて、体育館内のバスケットコートに入った中田は、驚いた表情で突っ立っている数人の部員を見た。
早く、練習にとりかかれよと、注意しかけた中田は、
リング下の稔之の姿を見て、他の部員と同じく驚愕した。
全身汗だくになって一心不乱にシュート練習を続ける稔之。
冷え冷えとした体育館内で稔之の熱気が湯気となって立ち昇っているのが見えた。
上腕の筋肉は幾筋かの汗がつたっている。
さらに脇を見ると、籠の周辺に転がっているボールも汗で光っているようだ。
「稔・・・最近、すげえ練習熱心だよなあ・・・」
引きつった表情で部員の一人がポツリと呟いた。
「うん・・・得点率は俺達の中でもダントツだし・・・
 こないだのH商業の試合、
 PG(ポイントガード)の田中、稔にビビッてたもんな・・・」
誰も、稔之に
「無茶し過ぎだ」
と言えない。いや言えなかった。
それ程、稔之から発する気迫は凄まじかったのである。

放課後。
綾香は毎日ではないが、教室から出て写真部へ向かう途中、図書館へ寄る事が日課として定着しつつあった。
図書館には最近親しくなった、部長西谷の友人、彩賀亮哉が居る。
綾香はこの間の期末考査で、学年順位を50番上げていた。
亮哉がまとめたルーズリーフのお陰である。
勿論、成績向上の為だけに通う訳ではない。
ルーズリーフをもらった時に見えた、はにかんだ亮哉の表情を見てから、
本当に・・・本当に微かだけど自分の中で、亮哉に対する好感が芽生えている事を自覚したからだ。
この事はまだ、誰にも言っていない。
それだけ、今の所は自分の中で小さい感情だからかも知れない。

図書館の扉を静かに開いて、綾香はすぐ、自習用に個別に仕切られた机の一つに亮哉の後姿を見つけた。
勉強に打ち込んでいる他の生徒の邪魔にならぬよう、亮哉の背後に忍び寄った綾香は机の端に置いてある赤本(各大学の過去問題集)に気づいた。
赤本の表紙が明示してあるのは、東京の文科系一流国立大学。
『彩賀君は、東京の大学を目指しているんだ』
綾香の心の中に、一瞬寂しさがよぎる。
また一歩、綾香の心は亮哉へと近づいた。
亮哉に声をかけようとした時、気配を感じたのか、丁度亮哉が振り返った。
整った顔立ちの上に、今日は縁無し眼鏡をかけている。
亮哉は綾香だと分ると微笑を返して、目線で外に出るように促した。

図書館は本館と特別教室煉の2階を繋ぐ渡り廊下の途中に建てられている。
綾香と亮哉は渡り廊下に出た。
南から吹く、強い風が電線を鳴らし、独特の音を立てる。
自動販売機でコーヒーを買い、亮哉は傍らのベンチに座り、綾香はベンチの真横に建った。
●挿絵2
出会った当初は、友人西谷が懸念する程、綾香に対して行動を押してきた亮哉だったが、最近は少し距離を置くようにした。
T市での出来事。
桜の写真の件で亮哉は気づいたのだ。
『水瀬さんは、案外怖がりな性格なんだろうな』と。
亮哉は行動力もあるが、自分の気持ちを自制するだけの精神力も持ち合わせていた。
ならば、綾香の気持ちが固まるまでは、こちらから接近するべきではない。
亮哉は紙コップの中のコーヒーをすすりながら綾香に尋ねた。
「水瀬さんは、大学は何処を受けるつもりなんだ?」
「私は・・・ここの大学に上がるつもりだよ」
綾香達の通う高校は大学付属。
従って、そのまま持ち上がりを狙う生徒も多い。
亮哉は質問を続けた。
「将来、何かなりたい物はあるのか?」
綾香は一瞬、言葉を詰まらせてから応えた。

「私・・・何も取り得ないし
 特にやりたい事もないから、
 多分、お父さんの会社に縁故で入るんじゃないかな・・・」
言った言葉は半分本心じゃない。
綾香は子供の頃から、周囲に
『少し変わった娘』
と言われ続けたのだ。
学校生活も楽しい思い出ばかりではない。
集団生活は、少しはみ出た者には容赦しない一面もある。
だから、怖いのだ。
社会に・・・未知の世界に飛び込んでいく事が。
しかし、東京の一流大学を目指す亮哉の前でそんな事を言うのは、ひどく子供じみた気がした。

「写真方面には行かないんだな」
亮哉は目線を渡り廊下のコンクリート床に落としたまま、コーヒーを飲み干した。
「やだなー。プロを目指す程、上手じゃないよ」
思わず、苦笑する綾香。
「まぁ・・・進路は水瀬さんのしたいようにすればいいんだが」
亮哉は紙コップを掌の中で潰した。
・・・でも、水瀬さん、
   広い世界に出れば、現在の君の悩みは
   凄く小さい物だって気づくよ・・・
聡い亮哉は、言わなくとも綾香の苦しみを見抜いていたのだ。

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