第三幕 六

 がたん、と音を立てて花雪が立ち上がった。
「三条…その名前。知ってる」
言うなりきびすを返そうとした彼女の腕を、慌てて源五郎が捕まえる。
「放して源さんっ!」
「待て待て、どこに行って何する気なんだお嬢様」
「決まってるじゃない!三条殿の屋敷に乗り込んで問い詰めてやるのよ!」
「あのな、無茶言うな」
「だってその子の証言があるじゃない!」
「今までの話聞いてなかったのか?こいつは捨て駒だ。誰も信じないさ」
何とか振り解こうと暴れる花雪に、ぴしゃりと一声が投げつけられた。貴乃から。
「静まりなさい花雪殿。話は未だ終わっていない」
 この青年には珍しいほど、重みのある声。驚き、動きを止めた彼女を元通り座らせることに
源五郎はどうにか成功する。
「…出過ぎた事を言いました」
頭を下げる貴乃に意味ありげな目を向け、誠司は少年に向き直った。
「詳しく話してくれないか?」

 たどたどしい少年の言葉を補足してまとめると、こうだった。
元々が公家である俊成がその英才を買われ、請われて三条家に婿養子入りした時。
傾いた三条家の財政を立て直すべく、彼は奔走した。その中に、三条家に使えていた草の者の
整理も同時に行ったのだ。そして精鋭を選び出し、『九人衆』と呼んで子飼いにした。
武士格を持ち、公式の場で護衛を勤める一佐彦(かずさひこ)。
軽業の二吉。(にきち)
鍛冶の清三。(せいぞう)
口述師の四郎。(しろう)
医師の五平。(ごへい)
薬売りの六蔵。(ろくぞう)
紅一点である、寝物語のお七。(おしち)
大工の喜八。(きはち)
細工師の九兵衛。(きゅうべい)
 彼等はそれぞれに市中に潜り込み、各々の技能を活かして情報を集めたり、時に手を
汚したりして京の町を駆け巡った。その結果、三条家の家計は見事に復活を果たし、そして
その功績により家老格へ大抜擢を受け、江戸に登る際に彼らも共に江戸入りしたのである。
「…俺は親に捨てられて、見世物小屋にいたらしい。赤子の頃、御方様に買われた」
何の感情も差し挟むことなく、淡々と続ける少年。
「九人衆の技を全部仕込んで、一人でなんでもする。非常時にはいつでも切り捨てられる。
それが俺。『名無しの十番目』」
 名前すら与えられず、毒を食わされ、想像を絶するような苦行を強いられた末に出来上がったのが
この氷人形か。
冷たいような、乾いた風を、剣介は感じていた。恐らくは皆も。
「…盲目(めくら)の陰間の真似をしながら条件に合う店を探してた、…それで、あの晩、
そこの二人が阿片中毒の男に襲われてるところに行き会って…あまり、騒ぎにならない
ようにって言われてた、から…押さえようとして、失敗して、腕を切られた」
彼の言葉に今度はお空と源五郎が身を浮かせる。
あの時、割り込んできた細い影。…彼がいなければ、きっと自分達は今頃土の下だ。
「何とか、そこから逃げて…武器とか、川に捨てて、後はよく覚えてない。…気付いたら、
白尾屋だった」
剣介が拾ってきたのだ。出来すぎた偶然のように。
「…白尾屋も、名前が上がってた店だったから、調べて、結果を鳥で知らせた…でも」
そこで一度、言葉を切る。上掛けを握った手に白く力が込められた。
「…さっき、六蔵が来た時…俺は、嫌だって、思った…」
ああ泣きそうだ、と誰かが思った。泣き方すら知らないだろうに。
「…あんた達が、殺されるの、嫌だと思った…」
それで話は終わりだった。後は見た通り、だ。
 命令される事しか知らない人形が、初めて自分の意志で動き、そうして、守られたものがある。
「阿片を流してるのは三条卿なんだな?」
誠司の問いにこくりと頷く。
「何の為にだ?」
「金。…それ以上は、知らない」
誠司の頭の中で色々な言葉がぐるぐると回る。貴乃の、花雪の、そして−桐原芳巳の。
「…一度失敗した以上、すぐには次の手を仕掛けてこないはずだ。…皆、しばらくじっと
しててくれないか?」
一同を見渡し、誠司は言った。重い声で。
「必ず、始末は付ける」
それは、上の命令で動く与力という立場の彼にしては、反乱宣言とも取れる言葉だった。
「…青城殿?」
訝しげに声を掛けた莞に、彼は鋭い、刃物の煌きを見せる瞳で。
「許せないんだよ、俺には。…白尾屋が阿片?冗談じゃない。そればっかりは許せねえんだよ、旦那」
まるで掴み掛からんばかりに、叫ぶようにして。
「俺は知ってる。あんたがどれだけ阿片を憎んでるか。だから、絶対に、そんな汚名を
着せるわけにゃいかないんだよ!」
他の者には分からない会話であったが、莞は胸元に伸びた誠司の手を軽く押さえ、一度だけ
首を横に振った。
「それで貴方の将来が潰れてしまうのは…」
「俺は、あの時初めて人を斬った」
被せるように言葉が続く。
「今でも思い出す。あの人の泣き声も、笑顔も全部。…一番忘れちゃいけねえのは
あんただろう、旦那!」
そこまで一気に叫んでから、誠司は首を垂れた。莞の手の下で、腕が震えていた。
「…分かりました。こちらも、火の粉は払いたい。従いましょう」
ぱっと顔を上げた誠司の目に、先程までとは違う光が燈る。
「よし、そうと決まりゃ今日は一旦解散だ。貴乃、お嬢殿、帰るぞ。源さんとお空ちゃんも
気を付けて帰ってくれ」
ばたばたと忙しなく身繕いを始めた彼につられて、皆が思い思いに膝を立てる。そんな中、
お空は白い布団の上の紅い眼をじっと覗き込み、にこりと笑った。
「あの時は、ありがとね」
ぱち、と深紅が震える。もう一度微笑んでから、彼女も源五郎と連れ立って座敷を出て行った。
取り残された形の莞、八房、剣介と名無しの少年は皆を見送り、大きく深い溜息を吐いた。
「…さて、こいつの事をどうするかが問題だな」
八房が多少困惑気味に言う。示された深紅はまるで何も映さない。
「おまえは、これからどうするつもりなんだ?」
莞の問い掛けに、彼は当然といった口調で答えた。
「結果はどうあれ、役割は終わった。後は死ぬだけ」
「は?!」
あまりにあっさりとした言葉に剣介が素っ頓狂な声を上げる。
「ちょちょちょ、ちょっと待ておまえ死ぬって」
「そこが俺の役目だ。用済みの道具は捨てるのが当然だろう?」
その事に何の疑問も感じていない…感じないように、育てられたのだ。
「…ここに、迷惑掛けたのは悪いと思ってる。だからせめて、邪魔にならない場所で死ぬから」
「ちょっと待てーっ!!」
剣介は思わず、薄い胸板を掴み上げていた。
「おまえがやった事はそりゃ白尾屋には災難だけどでもそれは命令されたからだろうが!
何でおまえが死ぬ必要があるんだ!」
「…それが、命令だから」
ちぐはぐなやり取りに、莞と八房は顔を見合わせて肩を竦めた。今後の成り行きが読めたのである。
「命令だったら何でもするのかおまえは!」
「…俺はそれしか知らない」
「だったら俺が命令してやるっ!生きてろっ!」
声を振り絞った剣介に、深紅がまた、瞬いた。
「…出ましたね。世話焼き犬の字の性分が」
「まあ無理もない。剣介が一番嫌う生き方を強制されてきたわけだからな」
「仕方ないですね」
「責任持って奴に面倒見させるさ」
面白そうに言い合う二人の前で、剣介は更に声を上げる。
「命令だ!生きろ!白尾屋が世話してやる!だから軽軽しく死ぬなんて言うなっ!」
首根っこを掴んだまま叫び、ぐるりと後ろの二人を振り向くと、妙に据わった目で見据えてきた。
「いいですよね旦那も重サンも!」
これで断ったら七代末まで祟られそうな雰囲気である。莞は苦笑して頷いた。
「今更一人増えたところで違いは無いな。おまえもそれでいいか?」
深紅は戸惑いも露にあちこちをさまよい、ぽつりと疑問を呈した。
「…命令…?」
「そうだ。白尾屋で俺達の手助けをしながら、生きろ。命令する」
ようやく剣介の手から逃れ、三者三様の視線を浴びて少年は小さく、本当に小さく呟いた。
「…分かった…生き、る…」
雨にぬれた、迷子の黒い子猫のようだと思った。


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