雪月夜夢暦 −挿話
−玻璃色夜話(ハリイロヤワ)上 「えーと、赤蔵、赤太郎、赤衛門…」 「赤から離れられんのか犬の字」 「だって重サン、これ強烈っすよ?そんな言うなら、何かいい案ありますか?」 「名無しなんだから権兵衛でどうだ」 「似合いませんってそれ!」 先程から繰り広げられているのは、新しく白尾屋に入る事になった少年の名づけ合戦である。 何しろ今まで『名前』という物を持たなかった少年のこと、少しでも良い名を付けてやりたいとは 思うのだが、如何せん面子が良くなかった。剣介も八房も、文学の方は得手ではない。 そんな様子を見るともなしに眺めていた莞は、ふと風を感じて格子戸を少し開いてみた。 はらはらと、白いものが舞っている。 それを見ているうちに、ひとつの言葉が浮かんできた。 「…ユキ、というのはどうだ?」 「「ゆき?」」 鸚鵡返しに二人の声が重なる。 「十番目と呼ばれていたんだろう?だから、とお、で透明の透の字を当てて、ゆきと読ませる」 肝心の当事者は深紅の眼をぱちぱちさせているだけである。 「透、ですか…ちょっと女っぽい気もしますが」 「その顔で権兵衛だの武左衛門だのよりはましだろう」 八房にこう切り返すと、剣介の方はゆき、ゆきと口の中で何度か繰り返して、にっと笑った。 「いいんじゃないすかそれ。じゃ、そうしましょう」 そして、氷人形から少年に変わった彼に向き直る。 「今からおまえの名前は透だ。決まったからな!」 びしっ!と指を立てて宣言する。 「…名前?」 「そう、名前」 「ゆき…?」 「そう、透」 うんうんと納得している彼は、何ともなくご満悦の様子である。苦笑して席を立った莞は もう一度、この子猫のような少年を見つめ直した。深紅(あか)い瞳の映す色に、記憶が 刺激される。 こんな目を知っている。 そう、深い深い、哀しみを見た、こんな眼を−… 莞の生家は小さくとも評判の良い『柳堂』という街医者だった。 莞は三代目である宗柳(そうりゅう)の一粒種で、いずれ四代目莞柳を名乗るはずだった。 本人もそのつもりで、よく父親の横見様見真似で薬研を使っていたものだ。 先代白尾屋店主とは、その頃から付き合いがあった。元々は薬種問屋と医者の関係ではなく、 所用でこの辺りまで出てきていた先代旦那の幸助が暑気にやられて倒れ、柳堂に担ぎ込まれた のが縁である。その後、宗柳と幸助とは趣味が合い、碁敵として行き来するようになった。 主人同士が仲良くなれば、自然と家族ぐるみの付き合いとなってくる。早くに妻を亡くしていた 宗柳は、幸助の奥さんに莞を預けて好きな碁に耽る事ができるようになったわけである。 そこで莞は、白尾屋の一人娘である紅華(べにか)に出会った。雛人形のように愛らしく、 可愛がられて育った明るい気性の少女。活発で、読み本をめくる莞を庭に連れ出し、 自慢の黒髪に小枝を引っ掛けては笑っていた少女。 幼い二人の関係が変わることになったのは、莞が数えで九つの時の大火事だった。 寒い冬の夜。柳堂のあった町屋全体を焼いた炎の中、宗柳は息子を突き飛ばし、まだ人が いる長屋に助けに入り…それきり出てこなかった。 真黒の消し炭になった家の前でぽつねんと立ち尽くしていた莞は、大慌てで駆けつけてきた 幸助に抱きかかえられるようにして白尾屋に連れてこられたのだ。 「残念だった。先生は、本当に残念だった」 莞の手足の火傷に膏薬を塗りながら幸助はそう繰り返した。 真白い布団の中で眠る事も出来ず、ただ天井を見つめていた莞の横に、いつの間にか紅華が 正座していた。彼女は、泣き腫らした目を擦りこすり莞の手を取り、何度も何度もこう言った。 「大丈夫。私がついてるから大丈夫よ」 そうして、莞は初めて泣くことが出来たのだった。 「あら?今日は道場の日だったでしょ?」 薬研を持って廊下を歩いていると、丁度紅華と行き逢った。返事の変わりに、莞の喉から 二、三度咳が飛び出す。 「あらら、またぁ?もう、急に寒くなったから気を付けてって言ったのに」 「たいした事は無いんですがね」 それでも今日は外出を控える事にした。そもそも、体を丈夫にすると言う目的で通わせて もらっている小太刀の道場だ。既に免許皆伝の身であるし、これで無理をして風邪を こじらせたら本末転倒である。 「お嬢さんも気を付けてください。感染りますよ?」 「やだ、いい加減その『お嬢様』っての、どうにかならない?」 「ま。けじめですから」 莞と紅華は、年が明けたら祝言を挙げることが決まっている。 莞は白尾屋の手代であるが、紅華と夫婦になれば若旦那として店を切り盛りする事になる。 それに対する不安が無いではないが、幼い頃からの恋がようやく形になる喜びの方が大きかった。 幸助夫婦もこうなる事を見越して莞を引き取ったようなところがあり、彼の扱いは最初から 他の奉公人達とは違っていたが、「息子が一人増えた」との幸助の言葉に反対する者は 誰もいない。白尾屋には若い奉公人はほとんど居らず、周囲はむしろ初々しい二人を歓迎 していたし、莞に至っては古参の女中から「坊ちゃん」と呼ばれてからかわれる事もしばしば だったのだ。 とかく、白尾屋は今、明るい空気に満ちていた。 「店の方に行くなら、後で生姜湯でも持っていってあげるわ」 「お言葉に甘えましょうか」 ふわ、と笑い合った次の一呼吸の間だった。何かを蹴倒す音と、怒鳴り声が響いたのは。 莞は手にした薬研を紅華に押し付け 「お嬢さんは奥へ」 と言い置いて、足早に表へと向かった。 嫌な感じがしていた。 まるで−吹雪の前の夜のような。 莞が店内を覗き込むと、幸助が三人の男達に囲まれているところだった。どの顔も一目で 破落戸(ごろつき)と分かる崩れた風体だ。だが幸助は、いかにも大店の主人らしく、臆せず 彼らを見返している。 「ですから先程申しましたように、こちらは今氷室組のご厄介になっているのです。それを 差し置いてそちら様には…」 「氷室組だあ?んなもん、俺達風神党に任しときゃいいんだよ」 「どの道、すぐにここいらはウチが仕切らしてもらうんだ。ちいっとばかり早まった所で 変わるめえ」 「それとも何か?天下の白尾屋さんがこれっぽっちのみかじめ料も払えねえって言うのかよ」 その辺りで莞にも察しが付いた。白尾屋に限らず、ここ一体のお店(おたな)は現在、 氷室組というやくざ組織に月々のみかじめ料を払っている。これは半ば公認の賄賂といったもので、 払ってさえいれば特に嫌がらせをされる事も無いし、また揉め事が起こった時には組が話を 仲介する事もある。勿論、全ての店が収めているわけではないが、少々の出費で面倒が 避けられるなら、と必要経費として割り切っている店の方が多かった。 そこへ、新たにこの風神党という組織が割り込もうとしているらしい。 「まずは、氷室組の徳蔵親分に話を通して頂かないと…」 「うるせえ!」 幸助の言葉を遮る形で一人の男が足元の壺を蹴倒した。割れ砕ける派手な音がする。 「申し訳ありません。…どうか、落ち着いてください」 「莞…」 幸助を庇う形で前に進み出ると、男達の視線が一斉に莞を見回した。 「何でえこの生っ白いのは」 「ここの手代です。どうぞ、この場はお収めください」 下げる頭は安いものだ。ぺこぺこと謝る莞に、男達は嘲りを隠さない。 「女形みてえな面しやがって。手代だと?」 「舐めてんじゃねえぞ手前え」 完全にこちらを馬鹿にした風だが、先程までの殺気立った様子は幾分か消えている。それが 莞の狙いだった。下手に出ることで場が鎮まるならいくらでも下げてやる。 だが、その思いは一気に破られる事になった。 「お?なんだ、随分な別嬪がいるじゃねえか」 ぎくり、と莞と幸助の顔が強張る。恐る恐る振り向けば、店の奥に立つ紅華の姿があった。 勝気でお店大事の彼女のこと、心配で様子を見に来て、見つかってしまったらしい。 「は、上玉だなあ。白尾屋さんよ、金が出せねえなら娘でもいいんだぜ?」 「あれが酌取りしてくれりゃあ、さぞかし美味い酒が飲めそうだぜ」 下品に笑う男達と、凍った表情の紅華。まずいか、と思ったところで店先から声が響いた。 「日中から何の騒ぎだ?店の外にまで聞こえているぞ」 大股で踏み込んでくる男の腰には大小二本。定町廻り同心、但馬行長であった。彼の後ろに、 見慣れない、まだ少年と言っても良いくらいの侍が付いている。 「その方等、何事だ?」 「いや、何でもありませんて」 「そう、薬の値の事でちいっとばかり揉めましてね」 「こっちもついつい熱くなっちまいまして、すんませんでした」 今度は男達が頭を下げて店を出ていく。だがその際に、彼らが紅華に好色そうな視線を 投げた事に莞は気付いていた。 「白尾屋。あのような輩と関わりを持つのは愚物のする事だぞ。偶々拙者が通りかかったから 良いようなものの…」 「但馬様にはいつもお世話を掛けております」 如才無く言いながら、幸助は但馬の袂に懐紙にくるんだ小粒を落とす。 この同心、恩着せがましく、しかも金に汚い事で有名でこの辺りでは嫌われている存在である。 袂に入った金の重さを確かめるようににやつく但馬に、控えていた若侍が眉を寄せる。 こちらは、但馬とは正反対の、精悍で清廉そうな顔立ちであった。 「とにかく揉め事はいかんぞ。万事平静に運ぶのが分別と言うものだ」 いけしゃあしゃあと説教を垂れる彼の話など、莞は聞いていなかった。紅華と顔を見合わせ、 互いが青ざめている事に気付く。またぞろ、あの嫌な予感が迫ってきていた。 嫌な予感は的中した。氷室組の頭目、徳蔵と新参である風神党の吉次との対立は、お上に 見えない形で町人達の生活に影響を及ぼし始めたのだ。みかじめ料をどちらに支払うか という問題はお店者の毎日に直結する。片方に払えば、もう片方が因縁を付けてくるし、 両方に支払うとなると掛が大きくなり、その上双方から責められる。 そんな中で、白尾屋は一つの選択をした。すなわち、お上に届け出た上でどちらにも一銭も 出さない、という選択を。 だが、これは最悪の結果を生む事になった。事なかれ主義の但馬は動かず−そして。 紅華が、 拐わかされた。 |