雪月夜夢暦 −挿話 −玻璃色夜話(ハリイロヤワ)中

 白尾屋は店を閉めていた。主人夫婦が心労で倒れて寝付いてしまい、商いが出来る状況ではなくなったのだ。
奉公人達にも暇を出し、火の気が消えて、風が寒々しく戸を鳴らすだけだった。
 その冴えた月光の下、莞は盛り場の影に身を潜めていた。ここは風神党の縄張りとなっている、藤屋と
屋号のある料亭だ。表向きは上品に繕っているが、莞の鼻は芬々たる白粉の匂いを嗅ぎ取っていた。
壁際に身を寄せ、飾り提灯の灯りから姿を隠しながら唇を噛む。ここ半月ばかり、慣れぬ身で必死に
探ってきた。あの日風神党の男達が紅華に向けた好色な視線と、彼らの縄張りをつなぎ合わせ、ごく密かに、
たった一人で、岡場所から高級料亭までを巡り歩いて、ようやく辿り着いたのがここ藤屋だった。
 お紅(こう)と呼ばれる酌取女がいると、それだけの情報に行き着くのに、どれだけ金を払ってきたか、
もう莞には分からなくなっていた。
「−お嬢さん」
その一言だけが折れそうになる心を支える。だからもう一度それを呟いて、そして彼は悟った。
己の背後、殺気とも呼べる感覚を。
「…−!」
考える事などしない。いや、出来なかった。抜き打ちで放つ小太刀の一刀。だが。
「っと!」
高く済んだ音を立ててそれは受け止められ、さらには一瞬で絡め取られて弾かれる。じん、と、痺れは
後から来た。
しかし、それよりも、相手から発された声に、莞の動きは止まっていた。
「あんた…白尾屋の手代か?」
顔を上げれば、そこには若い侍の姿。
見覚えがあった。あの日、但馬の背後に控えていた−。
「ここはまずい。とりあえず離れてからだ」
 武士らしく、年嵩のこちらにも敬語は使わずに彼は手招きをする。腕を押さえた莞に逆らう事は出来なかった。
弾き飛ばされた小太刀を拾い上げ、小走りに路地を抜ける若侍に、大人しくついていくしか、道は
残されていなかった。

 案内されたのは鰻の寝床のような縦長の小料理屋で、侍は若い癖に馴染みらしくさっさと座敷に
上がり込む。卓を挟んで座った莞に「酒は?」と訊いてくるので、首を横に振ったが彼は
「こういうとこじゃ頼まない方が妙だから」と言い、注文を取りに来た女に
「銚子二本と蕪汁、鯛のアラ煮と青菜の浸し、あと二、三品適当に見繕ってくれ」
さらさらと答えて追い返した。それから莞に向き直り、改めて顔を見合わせる。
「白尾屋の手代だよな?」
「莞、と言います」
「そっか。俺は青城誠司。与力見習で、今は但馬殿の下にいる」
「青城…殿?」
「武門の青城、と言った方が分かりやすいか?」
 誠司と名乗った若侍の言葉に、街でも聞こえた将軍家武術指南役の苗字が重なり思わず息を飲む。
その気配を察してか、彼は
「偉そうな事言っても、ただの若造に過ぎねえよ」
と手を振った。そこへ、先程の女給が料理と酒を持ってきて、卓の上に次々と並べていった。無愛想だが
あまり気にもならない。女給が去ると誠司は「適当に突付いてくれ」と率先して箸を取った。
断るわけにもいかず、味のしない料理を口に運ぶ。
「で、だ。あんた、何であんなとこに隠れてたんだ?」
ずばりと訊かれまた息を止めた。
だが、誠司の目に浮かぶのは単なる好奇心ではなく、真剣な光。釣られるように言葉が出る。
「俺の…許婚があそこにいると、話を聞いたもので」
「…白尾屋の娘さんが拐しに遭ったって話は俺も知ってる。…俺も、それを探ってたから」
かたん、と微かな音を立てて箸が置かれる。
「俺は…但馬殿のやり方に納得できずに、お勤めが引けた後、一人で動いてた。あんたも同じだろう?
あそこで会ったのは偶然なんかじゃない。目的が同じだったんだから」
 誠司の眼は、深い。
 町人だからとこちらを見下す事も無く、正義を全うしようとする一人の武士の眼だった。
「但馬殿は放っておいて良いって言う。やくざ同士の絡みに武士が出張る事は無いって。…でも、俺は
それは違うと思うんだ。だって、あんた達みたいに、辛い思いをする人がいるんだから」
 莞は何も言えなかった。
 子供じみた理想かも知れない。それでも今、誠司が真摯に莞を見つめている事には変わりが無かったからだ。
彼は真っ直ぐに莞の眼を見て、そして頭を下げた。
「お節介かも知れない。だけど、頼む。俺に、手伝わせてくれ」
「…青城殿」
「嫌なんだよ。誰か、泣いてる人がいるのは。だから…!」
「青城殿、お願いです。俺なんかに頭を下げないで下さい」
幾つも年下の相手に対して使う敬語は、最早形だけのものではなくなっていた。
「俺は、お嬢さんさえ帰ってくるなら、何でもする。だから…青城殿。俺を、助けて下さい」

 藤屋の入り口で誠司と別れた。応対に出てきた下男に言う。
「座敷をひとつ。知り合いから、今度美人の酌取が入ったって聞いたんだがな」
「へえ、お紅の事でございやんすかね。お客さん運がいいや。今晩はお紅も手が空いてます」
「じゃあ頼もうか。折角だ」
「へいへい、ご案内しやす」
 ここがただの料亭でない事は誠司に聞くまでも無く分かっていた。酒も料理も出すが、一番の売り物は女。
…そういう店だ。
 そして、そこに、紅華はいるのだ。
何だか吐きそうになりながら下男の後について階段を上り、小さな座敷に通される。
「にしてもお客さんいい男だねえ。これならお紅も商売っ気抜きで相手しようってもんだ。すぐ支度
させてきまさあ」
 軽口を叩いて格子戸が閉められる。四畳ほどの部屋の奥には襖。開ければ既に布団が敷かれているのだろう。
それを思うと尚更に吐き気が強くなって、強く唇を噛み締める。程なく、ほとほとと戸を叩く音がした。
「お客さん、入りますよ」
…声に、心が軋んだ。
 開くな、と一瞬格子を睨みつける。
 早く、とも思う。
その双方の願いを両立させたように、ゆっくりと戸は開き、そして…そこに、彼女がいた。
灯りは行灯がひとつ。うつむいたこちらに気付かず徳利を乗せ台を部屋に入れ、格子を閉じて、彼女は
またゆっくりと言った。
「お客さん?」
どうしようと、考えたわけではなく、ただ顔を上げて彼女を見る。
少しやつれて、肌が荒れていた。わざとのように気崩した着物の裾に、少女でない色気。
だが、それでも、そこにいるのは彼女だった。
震える手を口元に引き寄せ、引きつった声。
「…どうして…」
割れて聞こえるのは乱れた生活のせいか。それともこちらの心がおかしくなったのか。
「…出てって」
「お嬢さ…」
「もうそんな風に呼ばれるような女じゃなくなっちゃった。ごめんね。…だから、出てって」
大きな黒い瞳は濡れている。
 それでも彼女は笑んで。
 それは美しく。
だから莞は迷わなかった。
「紅華」
初めて、名前を呼んで、抱き締めた。

 その夜、風神党の男が、刺されて死んだ。


前頁 次頁