雪月夜夢暦 −挿話
−玻璃色夜話(ハリイロヤワ)下 同心、但馬は頭を抱えていた。ここ半月ほどの間に、氷室組と風神党の者が合わせて十人程も殺されている。 やくざ同士の小競り合いと呼ぶには大きすぎるところまで話が膨らんでいた。しかし一般の町人には まだ被害は出ていなく、この面も彼の立ち位置をややこしくしていた。一人でも町人が巻き込まれていれば 大手を振ってお調べに乗り出せるのだが、事が二つの組の中だけで収まってしまっている以上、口出し するのも厄介である。今更乗り出していっても、党の本人達には遅すぎるお節介だし、第一上司の与力から 何故ここまで事が大きくなるまで放って置いたのかと責められる事は請け合いだ。 要するに但馬は時を逃がしたのである。明らかな落ち度だったが、今は自分の下にいる与力見習が 「何とか俺が上に掛け合ってみます」と言うのでとりあえず任せてしまった。部下は七千石の大旗本の子息で あるが故、上にも下にも顔が聞く。そんな但馬の消極的な保身のもと、火種はじりじりと大きくなり続けていた。 昨夜は決闘とでも呼ぶべき喧嘩沙汰になり、互いに十五数える負傷者を出した。そのうちの数名は 命を落とす事になるかも知れない。事ここに至っては部下の先走りと片付けるわけにも行かず、氷室組と 風神党の頭目が顔を合わせて話し合いの場を設けることになった。場所は藤屋、日取りは三日後の夜である。 それを聞いて誠司は眉を寄せた。 「ようやく…ってとこなのか?」 「ええ、もう少し早く動いてくれると踏んでいたのですが」 莞の顔が白い。それが緊張のためか寒さのためなのか判断が付かなかった。 「…こんな方法しか、なかったのかよ」 「少なくとも俺には、これ以上早く片を付ける道は思い付きませんでした」 「下手人として上げられる怖さはなかったのか?」 「貴方がさせないと、信じていましたよ」 にこりと笑う。誠司はきつく唇を噛み、だが反論も出来ずに黙り込んだ。確かに、二組の争いを収めるよう 協力してくれと言ったのは自分だった。だが、まさか眼前の優男が自ら凶刃を振るって組事態を消して しまう方向に持っていくつもりだったとは、考えもしなかった。人は見掛けに寄らないとは言うものの、 異常過ぎる行動と言えば言えた。だがもう遅い。事は走り出してしまったのだから。 「…あれから、お嬢さんには会ったか?」 「いえ。全て片付くまでは、近寄らない方がいいと思いましたから」 「…三日後には、会えるさ」 それだけしか、口に出せなかった。 痛みが、軋みが、大き過ぎて。 だから代わりのように、こう言うだけにした。 「三日後の夜は、あんたが何を言おうと、俺も動く」 藤屋は本日貸切。強面の男共が飲み込まれるように中へ入っていく。舞台となる大座敷には早くから 上等の座布団が敷き詰められ、厨房では膳の支度におおわらわだった。何しろ、氷室組の徳蔵と風神党の 吉次が顔を合わせて談判を行うのだ。些細な失敗さえも首が飛ぶ。−だが、下働きの者までがその 重要性を認識しているわけではなく、莞が金を握らせた女中の一人が、大座敷の隣、二人入ればもう 窮屈な部屋を押さえてくれていた。 そこに座り誠司は改めて莞の顔を見る。何かに憑かれたような表情だとぼんやり思った。武者震いとは 違う手の震えに眉を寄せ、刀の具合を確かめながら、二人はただ、黙り込んで日が暮れるのを待っていた。 「さて、実際に顔を見るのは初めてだな。儂が徳蔵だ」 肥えた、巨躯の老人が言う。対して、こちらはまだ四十程であろう、痩せて目付きの鋭い男が返した。 「風神党の吉次だ。今日、あんたをここに呼んだ理由は分かってるな?」 「無論。ここ日本橋界隈は儂の組がまとめてきたもんだ。新人に口出しされる謂れは無いはずだがな」 互いに修羅場をくぐってきた者同士、声が太い。一気に険悪になった空気の中、酌取り女が徳蔵の 盃に酒を満たす。吉事の隣に座っていた女も同じようにした。赤い椀の底からふわりと酒香が立ち昇る。 「親分さんよ、見たとこあんたもいい歳だ。そろそろ頭を変える時期じゃあねえのか」 「うちの組にも跡目を継がせる男くらいはいるのでな。新参者は失せい」 「ああ俺は新参だよ。だがな、爺の縄張りを締め直す事ぐらいは出来るつもりだぜ」 ぎらりと目を光らせながらの吉次の言葉に、徳蔵は低く笑った。 「好き勝手言いよるわ。まあ若えし血の気が多いのも分かるがな。うちも手下を殺られてるんだ。この 件はどうする?」 「最初に内の若いのを殺ったのは手前だろう。勝手はどっちだ」 「何を言っている?死んだのはうちが先だ」 酒盃を口に運びながらも徳蔵は目を動かさず、吉次を睨み返した。 「どっちが先か、なんざはもう関係無いな。ここ半月でうちは六人だ。この落とし前ぐらいは付けさせてもらうぜ」 「うちも七人は殺られてる。それはこっちの台詞だな」 不穏な空気に圧されたのか、女達はそそくさと席を立った。愛想を言う事も無く戸の向こうに姿を消す。 だが、頭目二人はそんな女には目も止めていなかった。 「匕首持ち出した時にゃももう戦は始まってんだよ。ここいらで決着付けようや」 吉次の声で、彼の後ろに控えていた数名が膝を上げる。徳蔵の部下も長刀子を握り締めた。 ぎり、と鳴る空気。痛みすら感じさせるような。 「やるか?」 「やれやれ、全く血気盛んな奴だの」 徳蔵自信も脇に置いてあった刀を握り、ゆらりと巨体を立ち上がらせた。斬り合いの空気で空間が軋む。 そこへ−場違いな、からりと軽い音がした。 開いた襖の奥に、小太刀を携えた役者顔と少し青ざめた端正な若者がいた。 「何でえ、てめえら−…」 吉次の部下が声を発そうとして、そこから先は続かなかった。男の小太刀が翻るや、喉を割られて ばっと血煙が上がったからだ。 「何−…」 「あんたらのくだらん揉め事に巻き込まれた者だ」 青年は静かに、とても静かに言い放ち…そして、駆けた。 速い。数名が悲鳴を上げて床に伏せた。部屋中の男達が目を剥く中、彼は走る。その後ろに続くようにして、 若侍も刀を抜き放った。 びいん!と、骨を絶つ音が響いた。 「ひ…た、助けてくれ…」 無様に尻で後ずさる徳蔵に、誠司は血刀を突き付ける。 「そう言ってきた奴、何人殺った?」 自分の声が奇妙に冷めて聞こえる。少なくとも今、誠司は恐れてはいなかった。鋭すぎる切っ先を徳蔵の 胸に当て、呟く。 「…人って簡単に死ぬもんだな」 くだらねえ、と息を吐き、迷いもせずにその老いた身を貫く。かつて、徳蔵が奪った命の分だけの強さを込めて。 振り返って見れば、こちらもやはり莞に追い詰められている吉次の姿があった。 「…俺は、最初は放って置くつもりだったんだ。…おまえが、紅華をこんな所に引きずり込んだりするまでは。 …受け取れ」 間合いを一瞬で詰めた莞の小太刀は、躊躇い無く吉次の喉に吸い込まれた。声は上がらなかった。 倒れ込むその体を無表情にひと蹴り。ずる、と嫌な音がした。 「紅華…」 呟く声に合わせるように、閉じられていた戸が開いた。酒のお代わりを持ってきたらしいその女中は、 血溜まりに驚いて盆を取り落とす。そんな音にも気付かぬように、莞はそっと、懐紙で小太刀を拭い、 女中を真正面から見詰め返した。 「帰ろう。紅華」 血塗れの手を知らぬように、まるで夢の中にでもいるように、莞は呟く。 「…紅華を縛っていたものは俺が切った。だから…帰ろう」 子供の声のようだ。誠司は己の刀を鞘に収め、二人を見ていた。血に染まった莞の、伸ばされた手の先を。 「…何で、莞…」 「紅華のためだ。俺は悔いない。…こんな男でも、付いて来てくれるか?」 よく見れば、莞の手は小刻みに震えている。人の命を奪う事には罪を感じずとも、女に差し出す手には震え。 痛いな、と思った。そして同時に、不自然に痩せて尚美しい女に哀れを感じた。逃げられないようにだろう。 この女には阿片の匂いがする。恐らく、もう長くは無い。 それを知ってか、莞はもう何も言わず、ただ手を伸ばし続けた。 白い繊手が、その内に収まるまで。 祝言は白尾屋の身内だけでひっそりと執り行われた。枯れ木のように痩せた身に、紅牡丹の花嫁衣裳は 不釣合いとも言える豪華さで、だが莞はそれでも紅華を美しいと思い、三度の盃を口にした。 白尾屋の夫婦は泣いていた。ようやく戻った娘は阿片漬けにされており、それを断って禁断症状に打ち勝ち、 生き延びる事の出来る見込みはもう無かったからだ。 だから莞は阿片を集めた。あの折に頭目二人が死に、烏合の衆と化した氷室組と風神党の男達を使って。 身を切られるような痛みを味わいつつも、新妻の苦痛をなだめ、けれど死へと向かわせる薬を集め続けた。 「ごめんなさい」 と何度も謝る紅華を抱きながら。 謝る彼女の瞳が、既にここではない場所を見詰めているのを知りながら。 莞は、紅華を抱いていた。 それから数ヶ月−… 紅華の野辺送りを済ませた莞を、誠司が訪ねてきた。二人は日本橋の欄干に体を預け、周囲には聞き取りがたい 小さな声で話していた。 「…奥方の事は、残念だったな」 「いえ…よく保った方だと、思っていますよ」 紅華は静かにその時を迎え、自分はその手を握っていてやる事が出来た。それが叶ったのは、この青年が 上に正しい報告をせず、あくまでやくざ同士の抗争として片を付けてくれたからだと知っている。 「…あの後、さ。頭を潰した烏合の衆がどうなるかと思ってたんだが…まさかあんたがまとめるとは 思わんかったぜ」 「…ええ、もう二度と、あんな事は起こさせたくないですからね…。それなら、自分で監督した方が 良いかと思ったんですよ」 今でも目に浮かぶ。「ごめんなさい」と繰り返す、あの遠くを見ていた瞳を。 だから。 「白尾屋の商いも、少しずつあんたが仕切るようになってんだろ?主人はそろそろ隠居するって聞いたぜ」 川の流れを眺めながら、誠司はあくまで感情を交えずに言う。 「…もう商売続ける気力は無いそうなんですよ。仕方ないですけどね…」 「あんた、それでいいのか?」 「本音を言えば、まだ少し辛いですよ。でも、もう決めました」 自分はこれからも立って、歩き続けると。白尾屋を守り、あの眼差しを胸に抱いていくと。 「…すまない。俺がもう少しは焼く但馬殿の命から外れていれば…」 「過ぎた事を言っても仕方ありません。それに、俺は…後悔していません」 全てを負う事を決めた、その覚悟を。 例え、いつまでもこの傷が痛み続けるとしても。 「そうか…」 誠司はもう、何も言わなかった。ただ、川面に散る桜が、夕焼けの色に染まっていくのを、 二人でじっと、眺めていた。 「透、今日はもう寝ろ。後は俺達がやるから。な?」 剣介がまるで子供にするように布団を叩く。確かに、今日のこの少年は動きすぎだ。立ち回りを演じた後 毒を飲まされ、更にその上で事情説明されて行く先まで決められてしまったのだから。 「…そうだな。透、ゆっくり休むといい。後の事は後で考えれば良い事だ」 莞のほうを向く瞳の深紅。もうそれが、魔性のものではないと知っている。 ただの、絶望を見てきた子供のものだと。 おとなしく目を閉じる透に少し安心して部屋を後にしながら、莞はもう一度あの眼差しを思い出した。 顔立ちが似ているわけではない。いつでも活発だった彼女とは雰囲気が違う。けれど、同じ瞳をせざるを 得なかった者を…今度は守れるだろうかと、そう思いながら。 それは、玻璃色の夜の、静かな記憶。 玻璃色夜話−終幕 |