雪月夜夢暦 第四幕 壱

「桐原っ!」
廊下の途中で知った声に呼び止められて、芳巳は何事かと振り向いた。
「…青城殿?」
両手に一杯の紙束を抱えた誠司がそこにいた。
「どうしたんですか?城内で会うのは珍しいですね」
話し掛けてみても、何故だか彼は固い表情を崩さないままだった。ただ事ではないのか、と空き部屋に
彼を導く。
「本当に、どうしたんです?」
正面に腰を下ろすと、誠司は手にした紙束をざっ、とそこに広げた。
「勘定方の書庫から黙って借りてきた。おまえも秘密にしといてくれ」
またこの人は何を、と見返すと、彼は深い溜息をついた。
「…おまえにしか頼めない。これが何だか分かるか?」
「借受の証文でしょう?」
一枚にざっと目を通すと、芳巳はすぐに答えた。ここ最近ずっと見てきている書面だ。間違うはずも無い。
「…これ全部、調べ直してくれないか」
「は?何を…」
言いかけた声は途中で途切れる。それらの証文の最後、署名の部分が、全て同じである事に気付いたからだ。
「これは…?」
「おまえが信頼してるのは分かってる。…でも、この中に、妙な部分があるはずなんだ」
いつになく真剣な目に迫られて、芳巳は端正な眉を寄せる。この人のことを調べるのは、正直言って
気が引けた。だが。
「頼む。絶対に、何か出てくるはずだ」
頭を下げた誠司に、彼は訝しさを隠し切れないながらも頷いた。

 青城家の離れ。今日は仕事を休んだ花雪と貴乃が待っていた。
「遅くなって悪い。でも、信頼できる奴に預けてきた。…何かは出てくると思ってる」
腰を下ろしながら言い、花雪を真っ直ぐに見詰める。
「さて、ここまで来たんだ。いい加減隠し事は無しにしようぜ。…お嬢殿、あんたの家は?」
 事ここに至っては、最早隠しておく意味も無い。相手がただでは手を出せない大物だという事を抜きにしても、
これ以上黙り込むつもりは、花雪には無かった。
「…篠宮。それがあたしの苗字よ」
「篠宮?…聞いたことのある名ですが」
貴乃の問いを正面から受け止めて言葉を紡ぐ。
「北神(きたがみ)藩主、篠宮。あたしはそこの娘よ。お兄様が家督を継いで、私はお供で江戸に来たの」
流石に、二人の息が止まった。
「…北神…篠宮って、おい…」
 そう、江戸の米倉でもある東北の大藩、北神藩。自分はその当主、篠宮の娘だ。
「…黙っててごめんなさい。…あたしの乳兄弟が、阿片をやっていて、藩の金を横領しようとしたのを
見つかって、切腹させられたの。…あたしはその人が大好きだったから…何で、死ななきゃいけなかったのか、
どうしても納得できなかった。だから…藩屋敷を抜け出して、阿片の出所を探ろうと思ったのよ」
 せいぜいが旗本、あるいは大店の娘くらいに思っていた彼女の、想像を絶する背後に二人して言葉を失う。
篠宮家と言えば、東北五十万石の大名だ。そこの姫となると、もうこれは身分違いどころの騒ぎではない。
花雪がたまに見せていた、あの世間知らずの箱入り娘ぶりも、これで意味が通じようというものだ。
「…お嬢殿…。本来なら、それを聞いた時点で、俺達はあんたを北神の藩屋敷に届けなきゃいけない」
頭を抱えそうな誠司の後を貴乃が引き継ぐ。
「帰る気は、ありますか?」
「無いわ」
即答した。黒幕の正体は知れた。だが、決着が付くのをこの目で見ないことには、絶対に、胸の氷は
溶けないと、知っていたから。
「…危険だぞ」
「分かってるわ。でも…あたしは、もう、逃げたくない」
きっぱりと言い返す花雪の目に、一粒の涙が浮かんでいた。
「…分かりましたよ」
意外にも、そう答えたのは貴乃の方だった。
「その代わり、危ない真似はしないと約束して下さい。守れるのにも限りがありますから」
「…守って、くれるの?」
「それが役目です」
誠司はそんな言葉を交わす二人を、少し面白そうに、だが真面目に見詰めていた。

「旦那、『桜』に連絡がつきました。もうすぐ来るそうです」
 日が沈んで暗くなった廊下で、剣介は部屋の主にそう言った。ここ数日、必死に『桜』の行方を追っていた
努力がようやく日の目を見たのである。
「そうか…ご苦労だったな。まさかいつもと同じように地下蔵というわけにもいかんだろう。ここに
通してくれ。極力姿は見られないように」
莞はそう返して、山積みになっている紙束をめくり始めた。『桜』との商いで扱った品々の一覧である。
『用意できる物はこのくらいや』
と最初に渡された品物表の中には、どこにも阿片の文字は見つけられなかった。
『桜』は密貿などやっている割に妙に潔癖なところがあり、阿片や銃など、害毒になりそうなものは
一品も扱っていなかったのだ。
「お邪魔さん。入るで」
 頭から女物の袿を被って『桜』が顔を出したのは半刻ほど後の事だった。ぴったりと襖を閉め、二人きりになる。
「珍しいな。旦那から呼び出し食らうなんて初めてやわ」
「…聞きたい事があってな」
そうしてしばらく、二人は顔を見合わせた。
「何が知りたいんや?」
「商いの事だ。三条、という名を知っているか?」
 本来なら密貿者に他の客の名を出すなどご法度だが、今はそうも言っていられない。『桜』は眉を寄せ、
それでも莞の表情に気付いたのか、心持真剣な顔になって記憶を探った。
「サンジョウ…三条か…どっかで聞いた覚えはあるんやけどなあ」
金髪を掻きあげて首を傾げる『桜』に、莞はもうひとつの問いを投げる。
「おまえは、阿片を扱ったことがあるか?」
これまで築いてきた関係を崩してしまうような一言だと、自覚はあった。
 案の定、『桜』はぎらりと翡翠の瞳をこちらに向け、硬い声を返した。
「俺は、毒は売らへん。あんたにもそのくらいは分かってもらえると思うとったがな」
「すまない。単なる確認だ」
ここで『桜』の機嫌を損ねては後が面倒になる。莞は素直に詫びを入れた。
「待てよ。…三条…阿片…思い出した!」
ぱん、と手を打つ。だがその表情は冴えなかった。
「…俺が江戸に荷を運ぶようになってすぐ、声掛けてきた奴の後ろにいたのが確かそういう武士だったわ。
売って欲しい品物は阿片。俺はその場で断り入れたねんけど、なんやえろうしつこう周囲をうろつかれるんでな。
…何でも扱う、あんま評判の良かない同業者を教えてやったことがあるわ」
『桜』には嫌な記憶なのだろう。密貿を暴かれたくなかったら阿片を売れと、脅しを掛けられていたわけだ。
「三条って名前はそこで聞いた思う。なんや、何かあったんか?」
「…その三条と同業者とやらが結んで、市中に阿片を流している」
莞の声も重い。あの薬を憎むものとしては当然、口に出したくもない言葉だった。
「それに濡れ衣着せられそうになった。白尾屋が阿片を商っているという噂と一緒に、火付けに遭うところだった」
「な…」
 流石の『桜』も驚きを隠せない様子だ。自分が仲介した二者が、実はとんでもない事をやらかしていたのである。
彼は口元に手をやり、そしてそのまま頭を下げた。
「すまん、俺のせいやな。…俺があの時教えんかったら、何も起きんかったはずやろ」
「…起きた事は仕方がない。こちらとしては、『桜』と三条がつながっていない事を確かめられれば、
それで良かったからな」
話半分にしか知らないが、三条俊成は相当なやり手だという。その彼を真っ向敵に回すのだから、まさか
『桜』が関わってくるとは思いたくなかったのだ。
「これだけの事に手間を取らせて悪かったな。だが、安心した」
「…まだや」
ぽつりと『桜』が呟く。
「俺は、俺のせいで白尾屋に面倒運んで来たんやで?そっちが俺を許しても、俺は俺を許したない」
まぶしいほどに光る紙を掻き揚げ、『桜』はもう一度莞を促した。
「詳しく話してくれや。何ぞ力になれるやも知れへんからな」


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