第四幕 四

 『桜』が再び白尾屋を訪れたのは、吹雪と呼べるほどに真白い夜だった。莞と八房、剣介が出迎えて奥座敷に通す。
「遅うなって済まんかったな。ようやく、三条の裏が取れたんで急いで持って来たんや」
懐から綴りを出しながら、雪に濡れた金の髪を一振りする。
「…それは何の証文だ?」
 手にした紙束を見て八房が怪訝な顔になった。『桜』はまあまあと言いながら畳の上にそれらを広げて見せた。
「三条が俺に話を持ってきたんは三年位前になるか。そん時に仲介役やっとった商人に話がついたんや。
案の定、俺が紹介した同業者と取引しとった。これは、その証文や」
どうやって手に入れたものか−…おそらく、大枚をはたいただろうに、そんな事は全く気にしていないように言う。
広げた紙を一枚一枚指差しながら。
「最初の取引が二年半前−その後、五回の取引があった」
「見せてもらっても良いか?」
莞はそのうちの一枚を取り上げ、最初からじっくりと目を通していく。剣介と八房もそれに倣って、証文を丁寧に
見ていった。
「これは…かなりの量を一度に荷受しているな」
「さすが商人やな、旦那。あんたの言う通りや。五回とも、積めるだけ積み込んで運んできたって感じやな。
最後の取引はたった半年前。しかも、そこでもう商売は終わらせとる」
「成る程、集められるだけ掻き集めて、朧組を通して売り捌いて、今出回っているのがその最後の荷と
いうわけか」
八房の眉が寄せられる。どうも、この二年程の間に三条はかなり大きな商いを、その手で行っていたらしい。
「十分稼いだから取引終わらしたんやろな。これだけの量の阿片、売り切ったら相当な額になる筈やから」
『桜』の言う通りで、大型の船にぎっしりと詰められた阿片が五回分。一財産築いた形になる。
何しろ極楽の夢を見せてくれる、金の成る薬なのだから。
「…稼ぎ終わって金を集め終わったから、白尾屋に罪を着せて証拠隠滅しようとしたわけか。迷惑な話だ」
莞は思わずそう漏らしていた。もしもあの夜、透がいなかったら。今頃白尾屋は消し炭になっていたことだろう。
どうにか最悪の状況は免れたらしいが、それは今だけの話だ。恐らく近いうちに、もう一度襲撃がある。
理性以外の部分で頭の何処かがそう告げていた。
「早めに決着をつける必要がありそうだな…」
 だが、それにはどうする?いくら日本橋きっての大店とは言え、白尾屋は一介の商人に過ぎない。
幕府を仕切る家老職にある男に、真っ向から勝負を挑んで勝てる筈がない。誠司や貴乃の手を借りざるを得ない
−いや、借りたとてどうなるか分かったものではない。結局のところ、お上に対して町人風情は無力なのだ。
「しっかし、分からん事がひとつあると思わへんか?」
『桜』の声に現実に引き戻される。剣介が、手にした最初の取引の証文を持って頷いた。
「どっからこれだけの阿片を買う金持ってきたか、って事だろ?」
「そや。最近、武家の台所なんてどこもかつかつの筈やのに、大船一杯の阿片を買い占められるだけの金なんざ
そう簡単に用意できるもんやないで。二回目以降はともかくとして、最初の取引に使った金がどっから来たんか…
この辺が、鍵になるかも知れへん」

 白尾屋から届けられた書簡を持って、この晩誠司は青城家の離れを訪れていた。花雪も貴乃もいい加減
二人きりの夜に慣れてきていたから、妙に珍しい気持ちになる。
「この通り、三条卿が阿片の売買に関わっていた証拠は出てきたわけなんだが…」
細かい字で埋められた証文。
「でもこれだけじゃ切り札にはならない。御家老相手にこんな紙切れ突きつけたって、鼻で笑われて
終わるのがオチだ」
これらの出所は、いくら三条とつながっているとは言え、たかが町商人が記したものだ。捏造と言われてしまえば
それまでだという事は二人にも分かっていた。
「じゃあ、どうするつもりなの?」
「それは今準備中。何とかしてみせる」
請合う誠司も渋い顔だ。難航しているのだろう。
「それよりか問題は貴乃、おまえだ」
「は?俺がどうかしましたか?」
首を傾げる彼に、一言。
「一歩間違えればこっちが潰される相手だぞ。このまま付き合う気か?『葉瀬』貴乃」
固い声だった。覚悟を迫るような。
「何せ相手は今をときめく御家老殿だ。俺達全員まとめてお白州って事も有り得るんだぞ。おまえがそれに
付き合うのは、都合が悪いんじゃないのか?」
「……」
貴乃の眉がきつく寄せられる。一人話に付いていけない花雪が、焦れたように口を挟んだ。
「ねえ、何の話なの?」
その真っ直ぐな目を受け止めて、貴乃は言葉を返す。
「貴方も武家の娘なら、家名がどれほど大事なものかは分かるでしょう。…俺は、絶対に、『葉瀬』の名を
守らなければならない…そういう立場なんです」
言葉は平易だったが、今ひとつ意味がつかめない。そんな彼女の様子を見、誠司は年下の部下に「言っていいか?」と
確認を取った。貴乃は何処か沈んだ表情で頷きを返す。
「こいつの家はな、今でこそ同心なんていう軽輩だが、元を辿れば直参旗本を勤めてたんだよ。…生類憐れみの令
って知ってるか?その頃の当主が掟破りをして、それで家禄召し上げの上に位も随分落とされた」
 直参−文字通り、将軍のお傍により、直接見える事の可能な、旗本としては最上級と言っても良い役職だ。
「それから何代か、真面目に勤めてるし、元々の御沙汰が理不尽だった事もあって、このまま貴乃が家督を
継げば、その暁には旧禄、旧職に復帰できるって約束がある」
「そ、それって凄い事じゃないの?」
「ああ、凄い事だ。だからこいつは、絶対に今、家名に傷をつけちゃならねえ立場にいるわけだ。…そこにこんな
厄介事持ち込んで、もし失敗したら、全部の話が潰れちまう。ここまでは分かるよな?」
ばつが悪そうに下を向く貴乃に、彼は容赦なく言葉をぶつける。
「はっきり言うぜ。お家が大事なら、おまえはこれ以上この件に関わらない方が良い」
 武士が己の命よりも大切にしているもの。それに傷を付ける可能性のある事は避けるべきだと、誠司は告げる。
花雪は思いがけない成り行きに呆然としていた。…いつしか、あたりまえだと思っていたのだ。
この青年が力をかしてくれる事を。だが、事情を聞いてしまえば無理強いなど出来るはずがなかった。
花雪は、知っていたから。
自分の兄が、家名を守るためどれほど苦心しているかを。そして、一旦落ちたそれを元に戻せる機会があるなら、
誰とて必死になるだろうということを。
 だが、貴乃は顔を上げ、きっぱりと言い放った。
「今更です。俺にも、最後まで見届けさせてください」
嘘は無かった。自然に出てきた言葉だった。
 貴乃は覚えている。自分が同心職を拝命した時、既に将来の約束は出来ていた。だから、同僚達はいずれ
自分達の上に来るものとして、あからさまなおべっかを使うか遠巻きに見ているだけだった事を。
そんな中、ただ一人身分の事など気にもせず、自分を部下として、いや、対等な人間として扱ってくれたのが
誠司だけだという事を。
「誠司様に付いていくと決めた時から、多少の無茶は覚悟の上です。俺をそう育てたのは貴方でしょう?」
逆に問い返され、今度は誠司が言葉に詰まる。なまじ引っ張りまわした覚えがあるだけに反論できないのだ。
「それに…」
隣にちらりと視線をやって続ける。
「お守りをしなくてはならない人もいますしね」
世間知らずで無鉄砲で、だがそれゆえに純粋な、この姫君を。
守らねばならないと思うから。
「…お守ってどういう意味よーっ!」
「言葉通りです。貴方みたいな人を放って俺一人安全な場所に隠れているわけにはいきません」
言葉を紡ぎながら、いつしか貴乃は微笑んでいた。
そうだ、自分には守らねばならないものがある。そしてそれは、ひとつでなくとも良い筈だ。
この腕の届く限り、守れるものは守り続けようと。
例えその為に何かを犠牲にしなければならなくなったとしても、きっと後悔はしないだろう。
貴乃の胸に沸いた確信は、静かに、だが確かに、その光を燈していた。
降る雪に消される事無く。


前頁 次頁