雪月夜夢暦 第五幕 壱 冷たい月の冴え冴えと渡る夜だった。八房、剣介、透の三人は三条邸のぐるりを取り囲む石壁の下に寄っていた。 それぞれに動きやすい衣服を身に着けているが、透に至っては初めて白尾屋に来たときのあの黒装束である。 聞けば、これは内部に様々な隠し武器を仕込めるよう細工がしてあるのだそうで、彼はその着物を「仕事着」と 自分で呼んでいた。 「想像はしていたが、やはり随分としっかりした造りだな」 壁を叩いて八房が言う。彼の背丈以上に、がっしりと組まれた石は隙間ひとつ無く、それがそのまま三条卿の 性格を表しているとも言えそうだった。 「これ乗り越えるのは難儀っすね…っと、透?」 名を呼ばれた彼は唐突にその場にしゃがみ込んで草履を脱ぐ。何をやって、と問い返す前に左足だけ足袋姿に なった彼は器用に片足で立ち上がり、訝しげな顔をする八房に声を掛けた。 「やつふさ。そこ、立って」 「こうか?」 何をする気か分からず、言われるままに石壁を背にする。 「悪いけど、肩、借りる」 言うや否や、彼の右足が地面を踏み切った。軽く舞った体はとんっと左足で八房の肩を蹴り、そのままくるりと 一回転して石壁の向こうに消えた。頑丈な体躯の八房はそれで揺らぐ事も無く、呆れて己の背よりも高い壁を見詰める。 「…猫か、あいつは」 どうやら履物を脱いだのは彼の着物を汚さぬようにという配慮だったらしいが、その妙なところで発揮される 律儀さといい行動といい、どうも隣で笑いをこらえている剣介の影響で妙な方向に成長していっている気がする。 「猫っすねえ」 剣介が呟く間に、するすると壁の向こうから頑丈そうな細縄が垂れてきた。これで登ってこいということなのだろう。 始まる前から疲れた気がして溜息を吐くと、八房はその縄に手を掛けた。 二人が敷地内に降り立つと、透は手際よく細縄をまとめて着物の中に仕舞い込む。頭に叩き込んできた 図面からすると、目の前にそびえる立派な建物が三条卿の本邸で、確かに庭に面した縁側がある。 今は丁度、誠司達が表門を訪ねている頃合だ。剣介はにやりと笑うと、土足のまま縁側に足を掛け、勢い良く 格子戸を引き開けた。 内に控えていた者達がうろたえて立ち上がる。 「な、何奴−…」 「俗に言う曲者って奴だよ!」 言うなり鯉口を切って段平刀を抜き放つ。かたり、と峰を返した。 死人は出さないように。これが誠司から受けていた最優先の指令だったからだ。 「一回言ってみたかったんだよなあ、この曲者って台詞」 軽口を叩く彼の横を黒い疾風が通り抜けた。あの短い刀を手にした透だ。彼はその身軽さを活かし、未だ何が 起こったか分かっていない者達に飛び掛る。 「うわっ!」 「っ痛う!」 連続して悲鳴が上がった。透の振るう刀が、彼らの利き手、その親指の付け根を軽く跳ね切ったのだ。 上手い戦法だった。大した怪我ではないが、これで武器を振るう事は難しくなる。彼の働きを確認し、剣介と八房も それぞれの獲物を構え直す。 「くっ、曲者だ!出あえーっ!」 遅れに遅れた叫び声が響く中、三人は走り出した。 刻は少し前。 誠司、貴乃、花雪は三条邸の正門を叩いていた。 「三条殿に問い質したき議があって参った。夜分に申し訳ないが、取次ぎを頼み申す!」 よく通る誠司の声が番人二人の耳を打つ。 「青城殿と申したか?何の儀やらは知らぬが、このような刻限に当主に会わせろと突然訪ねられても困る」 「無礼は承知。だが事は大きく、日を改めるわけにはいかぬ。どうか、御当主にお取次ぎ願いたい」 「無理は無理だと言っておろうが。しかも婦女子を引き連れてだと?無礼にも程があろう」 薙刀を手にした花雪に向けられるのはあからさまな蔑み。だが彼女は臆することなく、きっと相手を見返した。 馬鹿にされるのなど既に承知の上だ。今更恐れても仕方が無い。 「そちらにも言い分はあろうが、事は一刻を争う重大事。門前払いを食わされるわけにはいかぬのはこちらも同じ」 「くどい。約定も無いのであろう?いずれ日を改めて参るが良い」 「そのようなわけにいかぬから、ここにこうして参上した次第。ご高察なされよ」 押し問答になるのは最初から予定済みだ。だから誠司は焦らなかった。それからもごり押しで粘り続ける。 月が傾いた。そろそろ刻限。 「くっ、曲者だ!出あえ−っ!」 屋敷内から突然上がった声に門番二人がぎょっとして動きを止める。その隙を、彼は見逃さなかった。 素早く固めた拳を二人の鳩尾に次々と叩き込む。 「ぐうっ…」 呻いて崩れ落ちた彼らを門の内側に押しやり、目立たない位置に転がすと、誠司は背後の二人に声を掛けた。 「さあて、あっちは上手くいったみたいだ。さっさと合流しようぜ」 そして彼等は走り出す。未だ見ぬ、三条卿のもとへと。 まさか表門から乱入者が来るとは相手も思っていなかっただろう。廊下を駆け抜けていくと、おっとり刀で襖が開き、 中から数名の侍が転がり出てきた。 「な、何奴ー!」 「三条殿に目通り願いたい!」 叫んで答えつつ、誠司は既に刀を手にしている。貴乃も同様だ。 「ふ、ふざけるな!誰がっ!」 相手も刀の鯉口を切る。誠司はかちゃりと峰を返して彼等と向き合った。あまりに堂々とした態度に逆に神経を 逆撫でされたものか、全員がいきり立って一気に間合いを詰めてくる。誠司の表情に焦りは無い。 一人目を軽くいなして胴を打ち、崩れるその身に構わず二人目の小手を跳ね上げ、たまらず取り落とした刀が 廊下に落ちるまでに同じく胴を抜いて気絶させる。相手は知らないが、彼は将軍家の武術指南役の家の出で 江戸でも有数の遣い手である。ただならぬ彼の技量に不利を悟ったか、数名が背後の貴乃と花雪に刀を向けて 斬り掛かる。 だが貴乃も並みの剣客ではない。繰り出される刀を掻い潜って相手の懐に飛び込み、強かに肩を打った。 悲鳴を上げて転がるその鳩尾にけりを入れて失神させ、もう一人と向き合おうとした。途端 「きゃ…っ!」 と声が上がり身を返す。一人が花雪に向かっていくところだった。薙刀は扱えると言ってはいたが、初めて向けられる 白刃の煌きに怯え、すっかり腰が引けている。今はその薙刀に縋ってようやく立っているという有様だった。 貴乃は無言で、彼女に迫ろうとしていた男の脳天に一撃を叩き込んだ。がくんと落ちる手からこぼれた刀が 足元に転がってきて、また小さな悲鳴が上がった。 「俺の後ろに」 「あ、ありがとう…」 「これが俺の役目です」 花雪を守り抜く事が、今の自分の最優先事項だった。 そんな風にして、三条邸の長い夜が始まった。 |