第五幕 参

「こっち」
 透が先導して皆を引き連れ、次々と現れる討手に手傷を負わせては後続の者達が彼等を気絶させていく、
と言う形がいつの間にか出来ていた。一応皆が見取り図を暗記してきたとは言え、三条邸の造りはかなり
入り組んでおり、熟知している者が引っ張っていく方が効率が良いのだ。こう見ると足取りは順調なようだが、
実際はなかなかそうもいかなかった。どうしても体力の差で遅れがちになる花雪の足に合わせているのと、
奥へ進むにつれて手練の者達が増えていたからだ。中には親指を跳ね切られても反対の手で刀を握り直して
向かってくる強者もおり、そうなると一人一人を倒すのにも時間が掛かってしまう。
自然と最初の勢いは失われていた。
 新たに廊下の向こうから姿を表した五人を打ち倒した後、花雪の息の荒さを見かねて貴乃が
「少し待って下さい」
と断りを入れた。全員それなりに疲れが溜まってきていたところだったので、一も二も無く皆が頷く。
とりあえずすぐ横の部屋を開け、中に誰もいないのを確認してから滑り込む。念のため襖につっかえ棒をしたところで
全員が腰を下ろした。
「透、今どの程度まで進んできた」
「あと半分くらい」
 八房の問いに短いが意味は重い返答。懐から各々が竹筒を取り出し、中の水で渇ききった喉を潤す。
やれやれと溜息をついたのは剣介だった。
「随分走った気がするけど、これでまだ半分かよ。先が思いやられるぜ」
その横では青い顔をした花雪を貴乃が介抱している。
「…ごめんなさい。あたしのせいね」
「気にするこっちゃねえさ」
誠司は軽く答えてから改めて彼女に向き直った。
「ここまでつれて来といてなんだが、お嬢殿には確認しとかねえとならない事がある」
「何?」
「あんたが満足できる結果になるかどうか分からないって事だよ」
髪を掻きあげる仕種も、何処か重い。彼は詰めていた息を吐き出すように続ける。
「あたしの…満足?」
「そうだ。こう言うのもあれだが、俺達は三条卿に公の場で裁きを受けさせられるわけじゃない。…むしろ俺は
別の事を考えてる。お嬢殿が思ってるみたいに、全てが白日の下にさらされて三条卿に罪を償わせる事は
出来ないって話だ」
 現在、この世が回っているのは曲がりなりにも幕府というしっかりとした土台があり、その権威を武士ではない者達が
認めてきちんと税を払っているからだ。もしも今、家老という要職にある者が阿片で市中を汚しており、それが明らかになって
彼が失脚したとすれば、その噂は瞬く間に市中に広まるだろう。それはそのまま幕府の権威の失墜であり、
信頼の消失となる。そうなれば、自分達の生活を脅かしていた相手が、「お上の威光」を振りかざしていた相手だと知れれば、
少なくとも江戸市民の大半は失望する。税を払わなくなる者が激増し、幕府の屋台骨が揺らぐ事にもなりかねない。
長年掛けて作り上げてきた形が崩れ、世の中がこれまでのように回らなくなる−…最悪、そこまで事が大きくなっていた。
「もしお嬢殿が三条卿に思う形で罰を当てたいなら、俺は、俺達は、それは止めなきゃならない。
世の中ひっくり返すわけにはいかないからな」
「分かってるわ」
だが、帰ってきたのは意外にも落ち着いた肯定の言葉だった。
「花雪殿?本当にいいのですか?」
「あたしが知りたいのは、何であの人が死ななきゃいけなかったのか、その理由−三条卿って人が、
何でこんな事をしたのかっていうその理由なの。それが分かれば、多分納得できる。だから大丈夫。
貴方が思ってるような、無茶はしないわ」
 自分でも自分が落ち着いているのが不思議だった。だが、今口にしたことが本心なのも間違いではなかった。
この胸に刺さった氷の刺を溶かすためのきっかけ。結局、自分が求めていたのはそれだったのだ。
それぞれに考えや立場があるとは言え、今の自分にはこんなにも、力を貸してくれる人がいる。あのまま篠宮の屋敷に
閉じこもっていたなら決して得ることが出来なかったもの。それを、花雪は既に手に入れていた。
「それ聞いて安心したぜ」
 誠司は今度は安堵のための溜息を吐き、よいしょ、と声を上げて立ち上がった。
「そろそろ行こうぜ。先はまだまだ長いんだ」
充分に休息が取れたとは言い難かったが仕方が無い。ここは敵地の真っ只中なのだ。
その言葉に各々が頷いて立ち上がり、体を伸ばす。一応準備は整ったようだ。
「じゃ、行くか」
襖を開こうとしたところで、八房がその背に声を掛ける。
「青城殿、あんたは結局のところ、どうするつもりなんだ」
その言葉に、彼はひどく複雑な表情で答えた。
「所謂『大人の解決』ってやつを考えてるつもりなんだがな」

 それからの道行きも困難だった。奥へ進むにつれ屋敷はどんどん入り組んでくるし討手も手強くなってきた。
常に先人を切る透は既に数箇所の手傷を追っている。いずれも浅手だったが、息が切れてきては手近な部屋に
忍び込んで休みを入れ、その間に剣介が手当てをしていた。こういう時の為に薬剤一式を懐に入れてきていたのだ。
つくづくまめな男である。
 そんな彼の努力もあって、彼等はようやく目指す居室の二部屋前まで来ていた。流石にここまでで警護の人間は
粗方倒したらしく、辺りに人影は無い。誠司が緊張した面持ちで襖を開く。ここから三条卿の居室までは
部屋続きになっているはずだった。
 と、その動きが止まる。
「ようやく来たかよ。待たせやがる」
冷たさを感じさせる声が全員の耳を打った。
 そこにいるのは、一人の男。明らかに只者ではない雰囲気を全身から発していた。
ゆらりと立ち上がると、長い黒髪が背で踊る。結いもしない艶やかなそれに囲まれたのは、美貌と呼んで
差し支えの無い白皙の面立ち。細身に、派手な着流しを引っ掛けただけの要望は一見女性めいても見えたが、
その酷薄な空気は皆を固くさせるのに充分だった。
「うちの組のモンがさんざ世話になったらしいな。顔見るの楽しみにしてたぜ」
腰に差した刀に手をやりにやりと笑う、その冷気。
「おまえは…」
誠司の声も、冷えている。怜悧な美貌の男はまたあの、全てを凍らせるような笑みを浮かべてこう言った。
「おまえ等の敵。朧組の頭だ。ま、楽しませてくれ」
ぎらり、と白刃が抜かれた。


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