第五幕 伍

 得物が折れるや否や、刀華斎は素早く後ろへ飛びすざった。柄だけになった愛刀を見やり、忌々しげに舌打ちする。
「あーあ、ったく見事に真っ二つにしてくれやがって」
言う割には残念そうでもなく、彼はぽいとその柄を投げ捨てた。
「やめだやめ。刀も折れちまったことだし、俺も飽きてきた」
そして親指で背後の襖をしゃくる。
「てめえらお目当ての総大将はこの奥だ。入るんなら入りな。俺は降りさせてもらうぜ」
むしろ清々したような口調に誠司が問い質した。
「…どういう事だ?」
「今回は俺の負けって事で良いさ。雇われ賃金分は充分に働いたぜ。大体が気に食わねえ奴だったしな。
後は好きにすりゃいい。俺の知った事か」
そのままくるりと踵(きびす)を返し、すたすたと出口に向かって歩き出す。そのあまりにも堂々とした雰囲気に呑まれ、
皆が思わず道を空けてしまった。
「おい!」
誠司が呼び止めると振り返り、にやりとあの酷薄な笑みを浮かべる。
「何だ?俺を捕らえるつもりか、役人さん」
不敵な表情。虎徹は折れたとは言え、まだ脇差を腰に下げている。もう一度この相手と手合わせる気力は、流石の誠司にも
残っていなかった。
 与力としては無論、こんな危険人物を放っておくわけには行かない。叩けばぼろぼろと埃の塊が落ちてきそうである。
だが今は確かに、三条卿と片を付ける方が先決だった。
「…分かった。どこへでも行け」
「へえ、随分と頭の柔らかい奴もいたもんだ。機会があったらまた戦ってみたいもんだな」
「…俺は御免だ」
本心だった。こんな相手と二度も三度も斬り合いを繰り広げるなど、考えるだにぞっとしない。
「全く、手前のせいでまた刀探しから始めなきゃならねえ。割に合わねえ仕事だったもんだ」
去って行く後姿。
その長い黒髪が見えなくなるまで思わず全員が見送ってしまい、やがてそれぞれに溜息をつく。中でも誠司は
深々と息を吐くやその場に座り込んでしまった。
「誠司様、大丈夫ですか?」
「そう心配そうな声出すなって貴乃。あー、厄介な相手だった…。正直、これが無きゃやばかったな」
刀の柄に巻きつけていた紐を外し、勾玉を丁寧に護り袋の中に仕舞う。
「それは何です?一体…」
「さっきも言っただろ。俺のお守り。月詠神宮の姫巫女から直々にもらったもんだ。神通があるのさ」
 月詠神宮と言えば、その名の通り月詠命(つくよみのみこと)を祀った格式高い神社である。月詠命に地上の花嫁として
姫巫女が仕え、祭祀を執り行っている。貴乃も名前はよく知っていた。
「元々青城の守護神は竜神だ。竜は雲と空に通じて、月とつながる。うちと何かと縁があるんだよ」
「はあ…」
それだけでは先程の現象の説明になっていない気がしたが、彼にはそれ以上語る気は無いらしく、元通り護り袋を
懐に入れて立ち上がった。一同をぐるりと見渡す。
「さて、いよいよだ。皆、準備はいいか?」
 固い表情で頷くそれぞれの顔に迷いが無いのを確認し、誠司はもう一度深く息を吸って、長い道程の最後となる
そこに手を掛けた。

 今までの道行きからすると場違いなほどに軽い音を立てて襖が開く。中は広い。その奥に、きちんとした姿勢で
座っている壮年の男性が三条卿なのだろう。いまだ若々しく端正なその姿と、自然と発される威厳のようなものが
彼を大きく見せていた。
 代表で誠司が口火を切る。
「三条俊成殿か?」
「いかにも。あの警備を抜けてここまで辿り着いたのは君達が初めてだよ。面白い面々が揃ったものだ」
六人をそれぞれに見やり、笑みさえ浮かべて見せるその余裕。最後に透に目を留め、ここだけは忌々しげに呟いた。
「寝返ったか、十番目」
透は顔を伏せ何も言わない。今まで絶対的な支配者として仕えてきた相手だ。複雑な思いがあるのだろう。代わりに剣介が
「寝返るも何も、最初から人間扱いしてなかった癖によく言うぜ」
と毒づいた。
「それで?こんな刻限にわざわざやってきたからには余程の用件があるのだろう。まずはそれを聞こうか」
姿勢は乱れない。動揺も無かった。
「その前に自己紹介しておく。俺は与力の青城誠司。こっちが俺付きの同心の葉瀬貴乃だ。後ろの娘は花雪と言う」
貴乃は名を呼ばれた時に思わず頭を下げていた。三条卿には無条件で人を従える、それだけの力があると感じられたからだ。
「こちらの二人は、白尾屋の重八房殿と犬坂剣介殿。付け加えておくと、貴公が『十番目』と呼んでいた彼は
今は透という名を与えられている」
「ほう。この片輪者に名を与えたか。酔狂な事だ。さて、与力殿が来たという事は何かこちらに問い質したい旨でもおありか?」
「…貴公が行った阿片の密輸とその売買について認めて頂きたい」
単刀直入に言う。三条卿はむしろ面白そうにそれを受け止めた。
「これは異な事を。私がそんな事に携わっていたと?」
「証拠はある」
 そこで八房が懐から紙束を取り出した。『桜』が探し出してきた取引書だ。それを受け取り、一枚一枚広げながら誠司は続ける。
「御覧の通り、貴公が密輸商人と阿片の取引をした際の証文だ。確かに貴公の名がある」
「話にならんな」
一枚の証文を突き返された。
「町方の商人が仲介役?こんな紙切れならば幾らでもでっち上げられる」
予測していた応対だった。欠片の動揺すら見受けられない。
「このような不確かなものを根拠にわざわざ乗り込んできたのか?徒労もいいところだ。私には全く見覚えが無い」
あくまで白を切るつもりのようだった。これも誠司の予想のうちだ。
「そちらはこれを捏造と仰るが、俺達は信じている。先だって白尾屋に貴公の手の者が侵入し、火付けをしようとした事実もある」
「白尾屋と言えば評判の大店だろう。色々と芳しくない噂もあると聞く。恨みのひとつやふたつ、買っていても不思議は
無いのではないかね?」
「こちらの透がはっきり証言してくれた。あれは貴公の子飼いの部下であるとな」
「そのような人か化生か分からぬ子供の言う事を真に受けるか。与力としては随分、軽薄にして拙速と言わざるを得ないな」
三条卿の余裕は崩れない。当然だろう。何しろ彼には、身分と実績という大きな後ろ盾があるのだから。
「ではあくまで貴公は無関係だと仰るか」
「当然だろう。最近の市中の乱れに悩まされているのはこちらも同じ。それを当方の所為だなどと決め付けられても困る。
第一、このような大量の阿片を仕入れるだけの資金的余力はどこにも無い。何しろ取り掛かったばかりの新田開発のための
出費が大きいのでね」
「成る程」
呟いて彼は黙り込み、ただ三条卿の目を見詰めた。
 幕府の要職を自力で手に入れたその才覚。自身が威厳となってその身を包み、実際の何倍にも感じさせる迫力。
真っ向から向かい合って、人間としての器の違いがむしろよく分かった。怖いくらいに。だから誠司は待ってきた。
切り札を。
 しばらく睨み合っていると、廊下の方から小走りに掛けてくる足音がする。ここまでの警護人達は皆倒しているから、
進むのは容易だろう。
やがて、足音の主が部屋の入り口に姿を見せた。息を切らせ、抱えた紙束を落とさないよう注意深く持った、若い侍。
「三条御家老…」
青年は息も整わぬまま眼前の人物の名を呼んだ。三条卿が少し目を見開く。
「君は…」
「やっと来たか。待ちくたびれたぜ桐原」
 勘定方、桐原芳巳の姿がそこにあった。


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