雪月夜夢暦 第六幕 壱

「桐原…君が、何故ここに?」
「青城殿に調べ物を頼まれていたんですよ。自分で問いたく思い、持参させて頂きました」
芳巳の口調は固く、冷めている。その声から、彼がこれまで抱いていた三条卿への信頼が揺らいでいる事が感じられた。
「…御家老にお尋ねしたいのは、これです」
取り出されたのは分厚い紙の束。彼はそれを、いつもの冷静さからは想像もつかない激しさで三条卿に突きつけた。
「貴方が管轄していたものです。見覚えがあるでしょう?」
書類は、一枚一枚が丁寧に書かれたものだった。どうやら城出入りの商人達からの貸し付け証文らしい。
細かく品名や金額が記されていた。そして末尾には、三条俊成の署名と花押が見て取れる。
「御覧の通り、御城御用の商人達の貸し付け高を記したものです。これらは年の瀬にその年の払いをまとめて
商人に渡し、それを確認してから貴方が署名されたものだ」
三条卿は何も言わない。内心は窺い知れず、ただ芳巳の言葉を聞いている。
「御城とて財政の厳しい身、一度に全額返済するのは無理と言うものです。ですから通常は、何年かに分けて
その年の借用分を支払う事になっている。長いものでは十年、二十年と言った単位で支払いをする所もある」
経済には疎い同席者にも分かりやすいようにしているのだろう。芳巳の話し方は平易で、門外漢の剣介達にも
その仕組みは何となくだが理解できた。
「それだけの年月になると、毎年の書類点検は甘くなります。当然ですよね。いちいち確認している手間も時間も
こちらにはありませんから」
 十年以上の単位の貸付となると商家の方も利益薄である。利子などが付いて支払われるわけではないのだ。
気分としては殆ど物品の差出だが、それでも城入りを狙う店が後を絶たないのは、「江戸城御用達」の文句が
一般の客にとってはまたとない宣伝になるからだ。そこは江戸っ子、流行りの物は手にしたいのが性分である。
「ですがご家老、貴方はどの店に何年分の借受をしているか御存知の筈ですね。何と言っても今、御城の台所を
仕切っているのは貴方なのだから」
 そこで再度、芳巳は証文の束を三条卿に突きつけた。まだ彼の表情は変わらない。
「…最初青城殿に相談された時は信じていませんでした。貴方のようなお方がそんな事をするとは思えなかったからです」
そこで一旦言葉を切り、唇を噛み締める。そこには信頼を裏切られた者に共通する痛みがあった。
「調べ始めてすぐに証拠は見つかりましたよ。思えば、俺が貴方から最初に受け取った証文もそうだった。
これらは全て、数年前に支払いが終わっているはずの店です。分かっただけでも五十軒近く。恐らく、詳しく調べれば
もっと見つかるのでしょうね…。支払いが終了しているにも関わらず、まだこれらの店には金が払われた事になっている。
十年が十一年になろうがこれまで払い続けてきたのだからそう簡単に分かるものではありません。一件や二件なら
間違いで済む。ですがここまで来るととてもそうは思えません」
芳巳はそこで一度大きく息を吸い、やがて意を決したように追求の言葉を吐き出した。
「一軒一軒の支払額は少なくても、これだけの数になると莫大な金が動いているのは確実です。三条殿、貴方はその金を、
どうしたのですか?」
 きつい目の光。言い逃れは許さないという強い気迫が感じられる。三条卿は動かない。代わりに誠司が一歩進み出た。
「さあ、どうなされる?こっちの証文は確かに町商人の物だし捏造できない事はない。だが桐原が持っているのは、
れっきとした公式書類だ。御丁寧に貴公の署名と花押入り。これを偽造する事は不可能。両方を合わせて見れば、
どっちの信頼性も補強される。この金がどこに消えたか、知ってるのは貴公だけだ。いい加減観念したらどうですか?」
 誠司と芳巳、そして三条卿以外の一同は呆気に取られていた。これが誠司の口にしていた「切り札」なのだ。
確かに公文書と言う補強材があればこちらの証文の信憑性もぐっと高くなるし、三条卿がどこから金を調達していたのかという
疑問に対する答えが現れたのだ。
 公金横領−御城の財政を誤魔化し、手にした金で阿片の取引を行っていたに違いない。
今の今まで頼りなかったこちらの優位性が確かなものになるのを皆が感じていた。花雪がぽつりと呟いた。
「御城を騙して手に入れたお金で阿片を買って、それを売っていたの…?」
「話からすると大分前から同じ事をやっていたらしいな」
八房が後を引き継ぐ。
「白尾屋としても聞いておきたい。そろそろ充分な資金が溜まったから阿片の売買は終わりにして、後は白尾屋に
罪を着せて葬ろうとした、ここまでは分かった。だが、そもそも、どうして金が必要だった?」
 相手は家老職にある人間だと言うのに、彼の声に気後れは無かった。剣介は隣でやっぱり敵わねえと思う。
何となく、この三条卿という人物とは口を聞きたくないのだ。
「ここまで判明してる以上、最早隠し事は出来ない。正直に話してください」
 誠司は三条卿を見据えた。この期に及んでまだ落ち着きを崩さないその姿を。芳巳も同じように彼を見詰める。
三条卿は何を思ったか、やおら立ち上がり、そして笑った。
「この短期間でよくも調べたものだ。まずは褒めておこう」
言われた言葉に芳巳は眉を寄せた。そこに嘲笑の響きを感じ取ったからだ。
「ここまで証拠を押さえられてしまっては確かに隠しおおせるものではないな。宜しい、話そうではないか」
彼の口調には未だ事態を軽くいなしている雰囲気があった。それでも大人しく、皆は耳を傾ける体勢に入る。
「確かに私は城の金を自分の懐に入れていたし、それを元手に阿片の売買を行って財を増やした。それは事実だ。
だが、その金で私腹を肥やしたわけではないよ」
どこかからかうような。自分の言葉が信じられようが信じられまいが、そんな事は関係ないとでも言うような。
「…それなら、何に使ったのです?」
芳巳はその三条卿の余裕に飲まれそうな自分を自覚していた。だから、腹に力を入れて尋ねる。
「君も知っているだろう。私が始めた新田開墾を。あれの費用に当てたのだ」


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