第六幕 四

 その言葉に息を飲んだのは一同だけではなかった。三条当人ですら、意外そうに瞬きを二、三度繰り返す。
「…無罪方面、という事かね?」
「表向きはそうなります」
幕府を揺るがすわけに行かない事情と己の正義感の狭間で随分と悩んだのだろう。貴乃は思わず
「青城様、本当に良いのですか?」
と確認の言を放っていた。口調がいささかきついものになったのは仕方が無いと言えるだろう。
「…良くは無いさ。それは俺の重々承知してる。だが…」
そこで一旦言葉を区切る。
「三条殿の能力は、これからの御城にとって最早欠かす事のできないものだ。例え汚れた金で作られようとも米は米。
この事業で飢えを凌げる人間が何人いると思う?陣頭指揮を執る人間は絶対に必要なんだ。それに、傾きかけてる
財政の立て直し。これも三条殿なくしては不可能に近い。…三条殿が失脚したとして、代わりになる人間は今のところ
いないんだ。なら、引き続いて仕事をしてもらうしかないだろう」
 誠司の中にも忸怩たる思いがある。目の前にいるのはれっきとした犯罪者なのだ。これを見逃すということは、
彼にとって己の職務を投げ出す事に等しい。
「三条殿は既に阿片の売買からは手を引いている。このまま静観していれば、いずれは収まっていくだろう。
出所に付いては明らかにならないにしてもな」
 ご禁制の薬とは言え、阿片を取り扱っているのは三条一人だけではない。やがて真相は闇に紛れて消えてゆくだろう。
「無論、今回の騒動で被害に遭った者達については、匿名で良いから十分な保証はしてもらいます。
それは納得して頂けますね?」
「分かっている。出来るだけの事はさせてもらうつもりだ。こちらとしても、何も無闇に怪我人を出したくてした事では
ないのだから」
三条の言葉は、嘘が混じっているようには聞こえなかった。彼は彼なりに、巻き込まれた町人に罪悪感を感じている
らしい事はその声音で知れる。
「もう一点、公金横領についても、貴方の手腕を以ってすれば少しずつでも返済していく事は出来るでしょう。
それこそ何年かかるかわからないが、きちんとけりは付けてもらいます。…それから、桐原!」
「はい?」
突然に名を呼ばれた芳巳は当惑して二人の顔を交互に見回した。その訝しげな視線を受け止めて頭を下げる。
「横領の証拠書類の管理と、これからの三条殿の働きを見張る事。これをおまえに任せたい。幸いにもおまえは勘定方だ。
金の流れを把握できる立場にいる。…やってくれるか?」
「…青城殿…」
いきなり降って沸いた重責に戸惑う芳巳。確かにこの場にいる、真相を知る者の中で常に城内で目を光らせる事が
出来るのは己しかいないのだが、未だ年若い彼にとってはあまりにも大きすぎる責任と言えた。暫く黙り込み、そして
ようやく口を開く。
「…分かりました。俺にどこまで勤まるのか分かりませんが、やらせてもらいます」
きっぱりと言い切った。その姿が一回り大きくなったように見えるのは、誠司の贔屓目ではないだろう。
 そして彼は振り返り、背後の花雪に目を向けた。
「…お嬢殿」
その声は、今までの中で一番硬かったかもしれない。
「聞いての通りだ。ここでは表向き、『何も無かった』ことになる。勿論真相は知っての通りだ。だが表沙汰にする事は出来ない。
…それでも、納得してくれるか?」
心底すまなそうな顔で彼は頭を下げる。元はと言えば花雪が持ち込んだ火種なのだ。彼女の行動が契機となり、
今ここに辿り着いている。だから彼女は、こくりと頷いて見せた。
「…あたしも、今度の事で色々分かったような気がする。あの人が死んだのも、きっとあの人が弱かったから…。
それに、こうやって、皆と会えた。今まで知らなかった事も沢山勉強できたわ。…だから、もういいの」
「花雪殿…」
貴乃が気遣わしげに彼女に声を掛けるが、それに対しても花雪はにっこりと笑った。
「ありがとう。今まで色々。これ以上はあたしの問題で、あたしが納得しなきゃいけない事だと思う。
貴方にも随分と助けてもらったわ。『お役目』以上の事をしてくれたって分かってる。だから…ありがとう」
そう言って、花雪は深深と頭を下げた。
 以前の自分なら、人に何かをしてもらう事は当たり前だった。だが、もう知っている。いつの間にか胸の、氷の刺が
溶けていること。
それが、ここにいてくれる皆のおかげだということを。
「本当に、ありがとう」
一人一人に向けて丁寧に礼をする。れっきとした大名の娘である彼女がそうできるようになった事。それはきっと、
とても大きな変化だった。
「…終わったな」
 莞が呟いた。
 そう、終わりだ。
理不尽な事も信じられない事も全て、流されて消えていく。師走の時の流れのように。
降り積もった雪がやがて解けていくように。
 今回の事件も、いずれは記憶の中に閉じ込められていく。傷は傷として残したまま。それでも、時間は過ぎていくものだから。
「透の怪我の手当てもしなければな。皆、帰るか。白尾屋に」
その場にいた三条以外の人間が顔を上げた。ひとり透だけは
「かえる…?」
と小さく問い返す。そう言えばこの子供には、『家』の概念すら無いのだと今更ながらに気が付いて、莞は苦笑して言葉を続けた。
「そうだ。おまえはこれから、白尾屋の人間としてあそこで暮らしていく。戻るべき場所に戻る事を『帰る』と言うんだ」
「俺が、かえって良い?}
たどたどしい言葉。焦れたように剣介が後を引き継いだ。
「良いも何も、もうこれは決定事項なんだよ。透は白尾屋に帰って、白尾屋で暮らす。もう、誰の命令にも従わなくていいんだ。
分かったら帰るぞ。歩けるか?」
差し出された腕に掴まり、透はもう一度『育ての親』に当たる三条に向き直った。
「…御方様」
「何だ?さっさと行け」
犬の子を追い払うような仕種に一礼し、言葉を続ける。
「貴方は俺に、多分、餌と芸とを与えてくれた。…でも、このひと達は、俺に『名前』と『自分』をくれたから。
だから俺は、白尾屋に、かえります」
「好きにしろ。私とおまえはもう関係が無い人間だ」
最後に深深と頭を下げて。そうして皆は背を向け、歩き出す。
白尾屋へ…いや、帰るべき、自分の『家』へと。
 月光の下で、根雪が崩れて、小さな音を立てていた。


前頁 次頁