雪月夜夢暦 終幕 壱

 やけに長かった師走が通り過ぎた新年の、まだ松も取れないある日、誠司は北神藩の藩屋敷にお呼びを受けた。
貴乃と二人花雪を送り届けて以来、二度目の訪問になる。最初の時は一体何を言われるやらびくびくしながら
訪れたものだが、何故だか意外にあっさり開放され、
「お嬢様をお守り下さったそうで。有難うございます」
と馬鹿丁寧に頭を下げられた。今日はそれから二週間ほども過ぎている。この上、何の用かねえと思いながら
流石に身なりを整え、滅多に用いない裃を羽織って馬鹿でかい屋敷におとないを入れた。
すぐに老僕が出てきて
「御屋形様がお待ちです」
と告げ、案内してくれる。御屋形様とはつまり当主の事で、思いがけない成り行きに内心結構混乱しながら
開けられた襖の向こうに頭を下げて入り込む。
「そう固くならないでくれ。今日はあくまで個人的な用件だ」
若い、けれど落ち着きと怜悧さを感じさせる声。顔を上げるとそこには、己と幾つも年の違わないだろう青年が
床机の向こうに腰掛けていた。座布団を進められ、言われるままに腰を下ろす。
「篠宮家当主、篠宮喬哉だ。この度は愚妹が大層な迷惑を掛けたようだな、申し訳ない。礼を言うためにはこちらから
出向かねばならないところ、わざわざご足労願って済まなかった」
「いえ、それは構いませんが…」
普段は身分などどこ吹く風の誠司だが、流石に相手が五十万石の大名様だと思うと腰が引ける。その困惑を見透かしたようで、
喬哉は軽く手を振った。なるほど、端整な顔立ちと漆黒の髪は言われてみれば花雪との接点が見受けられた。
「その後お嬢ど…いえ、花雪殿はお元気ですか?」
「あれも色々と思うところがあったらしい。今は大人しくしている」
「失礼ながら、最初に彼女が屋敷を出た時も、こちらはそれほど焦ってはいなかったようですが」
「あれの気性は良く分かったと思うが、言い出したら聞かない娘でな。暫く様子を見ようと、当家の『草』に見張らせてはいた。
結局、貴公達に保護され、結果的には良かったようだが」
「はあ…。まさか素性を知ってましたら、茶屋で働かせるなんてとんでもない事、やらせはしなかったんですが」
知った時には肝が冷えた。れっきとした『お姫様』にそこいらの町娘と同じ仕事をさせるなど言語道断だからだ。
「構わない。あれにも良い勉強になっただろう。帰って来た時は、見違えるほどだったからな」
それが賛辞なのか皮肉なのか、喬哉の表情は読み取りにくい。とりあえず怒ってはいないようだと安堵する。
「花雪殿は良い姫君ですよ。真っ直ぐで、心根が正直です」
「あのじゃじゃ馬を褒めてくれるのは珍しいのだがな」
「お世辞じゃありませんよ。間近で見ていて良く分かりました」
少々無鉄砲が過ぎるのが玉に瑕だが、あれだけ何もかもに真剣に取り組む姿は多種多様な女を見てきた
誠司にも好ましく映った。
この兄に厳しくが厳しく躾けられたのだろう。お姫様育ちではあるが礼儀もきちんとしていて、素直に礼の言える娘だ。
「そろそろあれも嫁に出す事を考えねばならんのだが。あの気性だ、下手な大名に無理やり輿入れさせた日には
そちらとの関係が崩れかねん。いっそ、貴公が貰ってくれれば有り難いと本気で思ったものだが」
「い、いやあのそれは」
「分かっている。貴公には既に許婚がいるそうだな」
「そんなことまで調べたんですか?」
幾ら大事の妹にまとわりつく虫とは言え、全くよく調べたものだ。
「しかも、聞けば月詠神宮の姫巫女の還俗待ちだそうだな。そんな所に割り込むわけにもいくまい」
「いや、何しろ俺はあいつに惚れてますから。他の女は必要ありませんよ」
現在月詠神宮で姫巫女を務めている許婚は、そのあまりにも強い霊力の為になかなか後継と交代できない状況にある。
誠司としては一日千秋の思いで待ちわびているのだった。
「さて、そうなるとまた話が白紙に戻ってしまうわけだが…」
「それなら丁度良い相手がいますよ」
にやりと笑って見せる。あの一ヶ月にも満たない間に、育まれたものがあるのだ。
「今は身分も家禄も低いですがね。数年後には直参旗本として召抱えられて、禄も八千五百石にまで
引き上げられる事が決まってますし年頃も程好いですし…」
どこか遠くで、誰かがくしゃみをした音が聞こえた気がした。

 同じ頃、花雪は邸内に見知った顔がいることなど知らず、筆を動かしていた。誰宛にしたためるものではない。
ただ自分用の書付だ。内容は、あの日々で起こった出来事、感じた事、思ったことなどを自由気ままに書き綴ったものだ。
忘れようもない鮮やかな日々ではあったが、こうして改めて文章にしてみるとまた新しいことが見つかる気がする。
「…楽しかったなあ…」
 大和屋で下町の人々の温かさに触れ、青城家でははじめて自分の寝所を片付け掃除をし、貴乃がやるのを見様見真似で
配膳させてもらったりした。そして三条邸に乗り込んだ時の事。
他人の悪意や白刃の元に身を晒し、皆の足手まといを自覚しつつ走ったあの息の熱さ。
刀華斎と誠司の本気の斬り合いには身が竦んだし、あの男の放つ妖気には本気で怯えた。その後、ついに見(まみ)えた
三条卿の複雑な思いや阿片売買の真実を知った、その折の衝撃。
 乳兄弟が死ななければならなかった理由。武士になろうとしてなりきれず、周囲から不当な扱いを受けていた
三条俊成という人物の、歪み、けれどそれ故に正しさを含んだ考え。生まれた時から武家の階級の中で育ってきた花雪には
少しばかり彼の気持ちが分かる気がする。
あくまでも「気」ではあるが。自分も女であるという理由だけで縛られている事は多い。だから、同情するわけではないが、
彼がああまでして誇りを取り戻そうとした信条は朧気ながら理解できた。
 不思議な事に、彼に対する恨みや怒りは無い。むしろ共感できてしまう部分すらあるのだ。不本意ながら。
「結局…あの人は、弱かったのよね…」
誘いを断れない、優しさと紙一重の弱さ。
それが今回の事件を招き、代償を命で支払った。そういうことだ。
 あの時には分からなかったが、今は兄の決断は正しかったのだと納得できている。悲しみは消えたわけではないけれど、
それと折り合いをつけることも学んだ。
これら全ては、篠宮の屋敷に留まっていれば理解できなかった事だ。
 あの師走の日々。
 今からしてみればまるで夢のようなあの日々が無ければ、決して得られなかったもの。
それらを無くさないために、花雪は今日も筆を取る。
あの、暦の上では一ヶ月にも満たなかった、夢のかたちを、留めておくために。


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