終幕 弐

 てけてけつんつんてけつんつん。
鈴の音のような澄んだ音とは妙にちぐはぐな、軽快と言うか間の抜けた音楽が鳴る。
その音に合わせて小さな車輪付きの箱が机に掘られた溝を通って客前まで届き、ぱかんと開くと中には
湯気を立てる番茶と安倍川餅が綺麗に並んでいる。
 拍手と共に皿が受け取られると、箱はまた元通り猿面の蓋を閉めて店奥まで戻っていった。
奥からお空がひょっこりと顔を出す。
「いよっお空ちゃん!今度のもなかなか凝ってるねえ。音楽付きかい?」
「そうだよー。手風琴と組み合わせてみたんだけど、どっかな?」
「風情があって良いんじゃないの?」
「でもねえ、あの音楽じゃあねえ」
「あれはお父っあんの趣味!だいたい、この店に風情凝らしてどうすんの」
「あっはっは!そりゃ言えてる」
客たちは大笑いしながら手を叩く。と、お栄が出てきて
「風情の無い店で悪かったねえ」
とじろりと周囲を見渡した。慌てて皆がご機嫌を取る。
「いやいやお栄さん、今のは言葉のあやってもんで!」
「そうそう、この店だってからくり茶屋で客呼びしてるけど、お栄さんの腕と味で勝負してる事は分かってるんだよ!」
「からくり無くたって俺達ぁ通わせてもらいますって!」
口々の言い訳を聞き流し、お栄はにっこりと笑顔を見せた。
「冗談だよ。あたしはあんた達がくつろげるような店にしたいんだからね。格式ばった風情なんてもんはどうでもいいのさ」
「流石はお栄さんだ。話が分かるねえ!」
客のひとりが拍手でこたえる。そしてふと、尋ねる口調になった。
「そう言えば、しばらく来てたあの別嬪な嬢ちゃんはもう来ねえのかい?あれこそ風情って感じだったがね?」
「ああ、あの子なら家に帰ったよ。寂しくなったから、あたしが猿坊さんに新しい仕掛けを頼んだのさ」
まさかそれがてけつん節になってくるとは思わなかったねえ、とお栄はけらけら笑う。客たちは納得し、
それぞれの皿に盛られた団子や餅菓子を美味そうに頬張り始めた。
 客が引けて暇になった夕過ぎ、例の如く余り物目当てにやって来た源五郎とお空を前に、お栄は一通の手紙を取り出した。
「昨日店を閉めた後で届いたんだけどね。花雪ちゃんからの手紙だよ」
「嘘っ!見ていい?見ていい?」
お空は喜んでくるくると紙を解いていく。上等の和紙に、焚き染められた香の良い匂いが立ち上った。
「ええと…」
 内容はお空達にも読みやすいよう、平仮名を多用した平易な文体だ。大和屋で働いた事がとても良い経験になったこと。
毎日が楽しくて楽しくて仕方なかったこと。お栄とお空、源五郎には幾ら感謝しても仕切れない事。
そして−もしも叶うなら、もう一度会いたいと、今でも思っていること。
最後に皆、お元気でお過ごしくださいという旨で締めくくられていた。
「花雪ちゃんかあ…懐かしいね。もう一月近く前になるんだあ」
「印象の強い娘だったからな。いなくなると寂しいもんだ」
だが皆には良く分かっていた。所詮花雪と自分達では身分が違う。もう二度と、顔を見ることさえも叶わないだろう。
それが道理と言うもので、受け入れるしかない。
だからあの日々は、正に夢のようなものだったのだ。雪が見せてくれた鮮やかで楽しい夢。
もう戻らない、見られない、だからこそ綺麗で楽しい、夢であったのだと。

 年越しも無事に済み、勘定方は通常の業務に戻っていた。日がな一日書面と三判をにらめっこしながら溜まらないよう
効率的に仕事を片付けていく。そんな中でも人一倍熱心に働いている青年がいた。言わずと知れた桐原芳巳である。
彼は自分の仕事をこなしながら、特に家老から上がってくる書類は舐めるようにして見返し、何度でも確認を取る。
そうしてそんな中でも新田開墾の事業に目を光らせるという、常人なら胃を壊しそうな作業をさほどの苦も無くこなしていた。
ここら辺は流石の力量である。
「桐原、これもちょっと手伝って…」
「御自分のお仕事なんですから御自分でっ!」
こういう事がぴしりと言えるようになったのも、重大な役目を担っている責任感が彼を成長させたおかげだろう。
今までの木っ端仕事とは違う、大きな役割が彼を人間的にも一回り二回り大きくしたためだ。間違いなく、今度の事で
彼は変わっていた。
それでも、時々は思い出す。三条から渡ってきた完璧な文書に真剣に見入っている時などに。
もしかしたらあれら一連の出来事は冬の夜が運んで来た夢ではなかったかと。
勿論、家に帰れば頑丈な鍵の掛かる長櫃に、あの事件の証拠達が整理されてしまわれているから現実だと分かる。
けれど、ふと去来するこの感覚は当分のところ消えそうに無い。
 あれらの事は夢ではなかったのかという思い。三条家老は真面目で尊敬できる上司のままで、
自分はこき使われる下っ端に過ぎないのではないかと。
だから時々確認する。これが夢ではない、現実で、自分はそれと向かい合っていかねばならないのだという事を。
そしてこの思いは、数ヵ月後に見事な形で実現する事になる。
桐原芳巳に、目付の役職を任じる、という大抜擢人事が行われるのだ。
だから幾ら本人が夢か幻かと思ってはいても、これはしっかりとした現実。彼が予想もしていなかった形で
それを思い知るのは、だがもう少し先の話。

 火鉢の周囲に勘定書や台帳、書付などを広げ、白髪交じりと漆黒、二色の頭がそれを覗き込んでいる。
と、からりと襖が開いて機嫌の良い声が入ってきた。
「お、やってますね。どですか旦那、透の調子は」
「けんすけ」
それまで頷いたり時折短い質問を口に出していた小柄な痩身が座布団から立ち上がった。
「よしよし」
くしゃくしゃっと髪を撫でてやると、透は軽く目を閉じてもう一度座り直した。今度は座布団の横。
今まで自分が使っていたものを剣介に譲るつもりらしい。
「いいんだって長居しねえし」
 再び頭を撫でると大人しく座布団に戻る。その隣へ腰を下ろし、剣介も火鉢に手をかざした。
透は幼い頃にそうしてもらった事が無いせいか、こうした軽い接触が好きなようで、このごろでは頭を撫でたり
肩を叩いてやると何となく嬉しそうにする。無表情なのは相変わらずだが、雰囲気が随分と違ってきていた。
年相応と言うか、十五、六としては随分と幼い仕種だが、あどけない様子は妙に微笑ましい。
「流石に物覚えが早いぞ。なかなか先が楽しみだ」
三条による銃創やらなにやらでまたしばらく床についていた透だったが、ここ最近は莞に白尾屋の商いについて
学んでいる。店先に出る事は出来ないが、薬の調合や金銭管理などを教え込み、いずれは影番頭にでも
してやろうというのが莞の心積もりである。
 勿論、身に付いた特技を活かして「裏」でも仕事を任せられるし、新しい奉公人を殆ど入れない白尾屋に
とっては真に貴重な人材と言えた。
「あー、重サンも言ってましたね。教え甲斐があるって」
剣介も八房も「表」の方でも働いているから、暇を見つけて自分の仕事について教えてやっているのだが、
頭の回転も早いし一度教えた事は忘れないしで、優秀な生徒振りを発揮していた。
あの騒動が通り過ぎて、白尾屋にも平穏な日々が戻ってきたのだ。
火鉢を囲む三人は、それぞれの思いを抱えながらも、ようやく訪れた平和をゆっくりと味わっていた。

 やがて日が暮れ、今日も冴えざえと冷たい月が白く積もった雪を照らす。
だが良く見ると、その中から雪割草がちんまりと顔を覗かせている。
明日も晴れるだろう。
そうしてやがて、冬の夢暦は終わり、江戸の街に、春がやって来る。

                              雪月夜夢暦 終幕


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