Act.1「蘇る記憶」

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6月下旬の日曜日。早朝。
市街地東部にあるマンション住宅の一郭に、
写真部部長、西谷の自宅があった。
西谷の部屋は狭いながらも、整然とされている。
窓ガラスからは、朝の強い陽射しが差し込んで来ており、
西谷のカッターシャツに白く眩しく反射している。

ドアに手を掛け、外に出ようとした時。
飼い猫である、イオスが足元に纏わりついてきた。
甘えたように前足を西谷のズボンに擦りつける。
気位の高いイオスにしては珍しい事だ。
「ん?どうした、イオス。
 でも、今日はそろそろ行かなくちゃならないんだ」
頭を撫でて、優しく抱き上げると、イオス専用座布団の上に降ろした。
●挿絵1
そう、今日はバスケット部決勝リーグ最終戦の日なのである。
対戦校は去年と同じ、全国常連のH商業。
共に、2勝をあげている。

決勝リーグは、県営体育館で行われる。
西谷は、写真部集合約束の1時間前に到着したのだが、
綾香、堀田、唯一の後輩である悠平は、もう既に集まっていた。
西谷より三人が早く来るなんて、初めての事である。
・・・いつもこれだけ、やる気があればいいんだけど・・・
思わず、内心苦笑した西谷は、門から体育館正面玄関に近づいて来る、非常に見慣れた人影を認めた。
「・・・彩賀も来たのか」
「何だ?武ちゃん。その表情は。
 俺が来るのは自由だろう。
 うちの学校がインターハイに出るかも知れないんだぞ。
 良いことじゃないか」
日頃中田を除くほとんどのバスケ部の連中が、刺のある視線で亮哉を見つめている事に本人は気づいていないらしい。
・・・まぁいいか。
亮哉の図太さが羨ましい西谷であった。

観客席に入る、綾香達一行。
まだ、試合時間まで随分とあるので、人影はほとんどない。
綾香達は試合撮影の任で来ている為、観客席では最前列に座る事になっている。
端から、まず綾香、隣に西谷。
そして堀田、悠平。
その隣に亮哉、という順に座った。
亮哉もさすがに今日は綾香の隣に座るつもりはない。
亮哉なりに稔之に対して敬意を払っているのだ。
カメラを取り出す綾香に、西谷が話し掛ける。
「関谷の写真にこだわらなくていいからね。
 確かに、シュートを決める関谷の姿は写真として、様になるだろう。
 しかし、立華のバスケ部は関谷の攻撃だけで勝ち進んで来た訳じゃない。
 H商業のPG(ポイントガード)程、緻密じゃないけど、
 中田のフェイクパス技術。
 そしてセンターの榊のリバウンド。
 この2人も、選手としてはなかなかのレベルなんだよ。
 試合の流れによっては、彼らの方が大きな働きをする可能性もある。
 あくまでも、『勝ち』に一番、導いた選手を多く撮影するんだ」
西谷は写真技術だけでなく、スポーツ知識にも詳しい。
綾香は、真剣な面持ちでこっくりと頷いた。

一方、立華大学付属高校バスケ部控え室。
部屋の片隅で、椅子に座った稔之は、
頭からタオルを被って眼を閉じていた。
部員の皆は、稔之の心情を気遣って誰も話し掛けない。
稔之は、今、スタメンのメンバーを始め、
部員の全て、そして監督に感謝の気持ちで一杯だった。
●挿絵2
勿論、自分は、人より何倍も強くなる為、今日の日まで練習してきた。
しかし、続けてこられたのは、眼に見えない、他の部員達の無言の応援があったからだ。
結果、再び、ここまで這い上がる事が出来た。
今日、すべてを出し切って、皆の思いに応えねば。

そして。
『過去の苦しみから一歩でも這い出さねば』

「あ、選手達、出てきましたねっ。
 そろそろ始まるんすよ」
悠平がコートを期待を膨らませた表情で、コートを指差した。
すっかり、応援者である。
同時、試合開始を告げるホイッスルが場内に鳴り響いた。
『撮った事がないスポーツ写真だからって気にする事はない。
 手ブレしないように三脚をたてて、
 選手の顔をとらえて、流し撮りすればいい。
 技術より、試合の流れを掴み取る事や、勘が大事なんだ』
ここ2ヶ月間、受けた西谷のアドバイスを思い出しながら、綾香は望遠レンズをカメラに撮り付けた。

コート上では、稔之の姿も見える。
隙あらば、ボールを奪いたい稔之であったが、
ポインドゲッターだけあって、しっかりとマークされていた。
強豪H商業は堅実な守りで、僅差ではあるがリードしていた。

綾香はカメラを構えた。
亮哉に対するけじめから、試合撮影を引き受けた綾香であったが、
一度は挫折しかけた稔之が、相当な努力を重ねて辿り着いたインターハイへの道。
何としても、今日は勝ってもらいたい。
意気込む綾香だった。

「ところで武ちゃん、
 今日は浮かぬ顔をしているな?」
いきなり背後から亮哉の声を聞いた西谷。
いつの間にか、亮哉は西谷の真後ろにある座席に座っていた。
「・・・今は応援に集中しようよ」
いつもの温和な笑顔で西谷は、その場を取り繕うとした。
「俺にも言えない事か」
亮哉の声が一回り小さくなっって西谷の耳元に囁いた。
「・・・彩賀ならありえない事だと思うけど、
    今日何があっても、動揺しないでくれ」
観念した西谷は声を潜めて忠告だけ、亮哉にした。
・・・ひょっとして、水瀬さんの事か・・・?
亮哉は綾香の背中をチラリと一瞥した。

試合も中盤に差し掛かる。
相変わらず、H商業がリードしたままの展開であった。
立華も健闘しているのだが、いかんせん貫禄の差か。
試合の流れを変える決定的な攻撃はなかった。
稔之の心の中に、苛立ちが芽生える。
相変わらず、自分に対するガードは堅い。
その時。
「関谷、右だ、右に抜けろ!」
観客席から、よく通る声が稔之の耳に届いた。
亮哉の声である。
観客側からずっと冷静に試合を観察していた亮哉は、稔之のガードの左膝が疲労の為、動きが鈍くなっているのを見抜いていたのである。
稔之は隙を突いて、ガードの右に抜けゴール方向に走り、パスを貰う振りをした。
味方選手は、稔之に渡すように見せかけ、走りこんできた別の選手にボールを渡した。
そして、ボールを受け取った選手はそのままシュートを決める。
・・・一番言われたくない奴に、アドバイスを受けてしまった・・・
内心、舌打ちした稔之だったが、それが却って闘志を湧き立たせたのか。
ガードを振り切る回数が一転して多くなった。
案の定、稔之がシュートを決める回数が多くなる。
両校の点差は段々と縮まっていった。

西谷が綾香の肩を軽くポンと叩いた。
試合の流れが稔之に向いているという合図だ。
西谷の横顔は緊張に固まっている。
綾香はカメラを稔之へと向けた。
ドクン、ドクンと心臓の高鳴る音が、耳の中で大きく響く。
春休みの旅行とは、また違った心拍音だ。

何故、こんなに緊張するの?

レンズ越しの稔之は、軽快にドリブルをし、相手選手を抜いていく。
攻めに転じた稔之の表情は、一種自信に満ちていた。
綾香のこめかみに汗が流れる。
もうあと、一ゴール決めれば逆転だ。
稔之をカメラ目線で追いかける。
自分の肘の震えが止まらない。

何を、恐がっているの?私は。

稔之はゴール下まで辿り着くと、一度シュートフェイントをしてガードを崩すした。
今だ、次は確実にシュートする!
綾香はシャッターを押す体勢に入った。
同時に稔之がランニングしながら、ステップを真上に踏み、ボールを頭上に引き上げ、シュートを決めた。
勢いよくボールがゴールに入る。
シャッターを押した綾香は、抜群の状態で撮影できた事を直感した。
やった!
心の中が嬉しさで、眩しく白くなる。
逆転を決めた稔之も嬉しさに一瞬笑みを見せた。
望遠レンズには、はっきりと表情が見える。
・・・・・・?
綾香は、その笑みを遥か昔に見た事を思い出した。
それは、現在のような、喜びの場面ではない。

最も最悪の状態の時に。
綾香の記憶は、フラッシュバックするように遡りはじめる。
・・・思い出した。
何故、自分が稔之を遠ざける事になったのか。
「・・・稔之」
綾香は六年ぶりに幼馴染の名前を口にした。
しかし、親しさを込めてではない。
昔の怒りがぶり返したのか、綾香の目つきが一気に厳しくなる。
自分でもこめかみが熱を持っているのが分った。

そんな綾香の様子を盗み見ていた西谷は、つらそうに顔を背けた。
・・・やっぱり、そうだったんだ。
   水瀬さんが心を閉ざしたのは、関谷に対する愛情なんかではなく、
   むしろ、憎しみを持っていたからなんだ・・・
稔之の依頼は本人にとって最も辛い結果となった。
「試合に興奮するのも分るけど、今は落ち着いてね」
西谷が諭す声も耳に入らないのだろうか。
綾香は小刻みに震える手でカメラを持って立ち尽くしたままである。
挿絵3
「水瀬さん!」
西谷は初めて声を荒げた。

トウッ
奇妙な掛け声と同時に、綾香はその場に崩れ落ちた。
亮哉が背後から、綾香の首筋に手刀をくらわせたのである。
開いた口が塞がらない西谷と、堀田、悠平。
「武ちゃんまで、動揺してどうする」と亮哉。
腕に気を失い、倒れかかった綾香を抱えている。
・・・だからって、あんた・・・
無言の堀田と悠平の訴えを察したのか、亮哉は
「事態は見えてこんが、話にならんのなら仕方ないだろう?
 今は大事なインターハイ予選なんだ。
 感情的になる時ではない。
 俺は水瀬さんを救護室に運ぶから、
 撮影を続けてくれ」
憮然とした表情で言い放つと、亮哉は綾香を両腕に抱きかかえて、会場を後にした。

気を失った綾香の意識は、そのまま六年前へと戻っていった。

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