Act3「再び、朝が来る」

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面積の大半を占める大きな本棚がある綾香の部屋。
本棚には漫画の単行本とゲーム攻略本がびっしり詰まっている。
本棚に対してL時型になるように配置されている学習机の上の時計は0:00を既に過ぎていた。

綾香は昼間、同人誌即売会で購入した本を必死に読み続ける。
作業の疲れより、本が見たい気持ちが遥かに勝っていた。
綾香の好きな作家が描いているキャラクターは、見るだけで心を舞い上がらせる。

蒸し暑さとキャラクターへの熱意に、喉が渇いたので麦茶を取りに1階へ降りようとした時。
本に夢中で分からなかったのだが、自分の手の平にマメが出来ているのに気がついた。
・・・思ったより大変な作業だったんだ
直している間は、元の空間に戻したくて必死だった。
・・・関谷君に迷惑かけちゃったな


●(挿絵5)

自分でもこうと決めたら曲げない性格は分かっている。
稔之に限った事ではない。
律子と美樹も呆れつつ、付き合ってくれている。
理解ある友達に巡り合えた事はとても貴重だ。
二人をずっと大切にしていきたい。

そう思いつつ、稔之の方から公園に来た事に気が付いた。
いつも稔之は綾香のずれた行動に批判的。
口に出さないが、雰囲気で分かる。
しかし、最終的には自分から現れて協力する。
・・・心配してくれているんだ。いつも
手の平が一瞬熱くなる。
稔之の手にもマメは出来たのだろうか?

大会に向けて、部活の練習も忙しいのに。
先刻は暗くて見えなかったが作業をしている稔之の姿が、今は克明に頭の中に浮かぶ。
・・・明日もう一度お礼を言おう
そして綾香は立ち上がった。

稔之は夢の中で自分の母親と対面していた。
はっきりとした顔立ちは、キャリアウーマンである彼女の雰囲気を醸し出す。
ビジネススーツもよく似合う。
稔之の母親は現在45歳。
しかし夢の中の彼女は30代前半のように見えた。
対応して自分の姿も5、6歳前後だった。

母親の表情は、稔之の父親と埋める事が出来ない溝を作ってしまった、苦悩。
自分の子と今後一緒に住めない、寂しさ。
一人で生きていかねばならない、生活への不安。
もう家族と終わる事の無い気持ちのすれ違いから生まれる衝突を起こさなくていい、安堵感。
様々な感情を見せていた。

自分も連れて行ってほしいと夢の中の稔之はすがりつく。
母親は身を切られるような表情で首を振る。
「あの人は一人で何でも出来る人。私が居る隙間なんて結局無かったわ。
だからこそ・・・稔之には、あの人の傍に居て欲しいの」
稔之はこの言葉に込められた母親の思いを今でも分からない。

稔之の父親は幼い頃、両親を亡くした。
早くから人生の色々な局面では一人考え、乗り越えなくはならなかった。
彼は人に頼る事の少ない人間。
弱い所を決して見せない。
母親が誰かに呼ばれて、別の方向を向く所で、夢は終わる。

除々に自分の見慣れた風景が目に入ってくる。
稔之の部屋は掃除も行き届いており、衣類も丁寧に整頓されている。
基本生活能力が高い所は父親に似ていた。
父親は、遠い海外に行っている。
会う事は年に数回だ。
夢の余韻が重くて、ベットから起き上がる気持ちがすぐに湧かない。
心の中に鈍い鉛が入り込んだ感覚。
・・・俺は誰かに必要とされたいのか?
その誰かが思い浮かばなかった。

間もなく外で車のエンジンがかかる音が聞こえた。
綾香の父親の弘明が出勤する時間だ。
朝の日差しが一層強くなった所で、稔之は起き上がった。

部活に出かける準備をし、いつものように朝食をとりに綾香の家へ向かう。
「冷蔵庫の中に玉子豆腐があるからね」
晶子が味噌汁をつぎながら、冷蔵庫の方を向く。
晶子の明るい声は稔之を夢から現実に、完全に引き戻した。
ちょうど稔之が来た頃に出来る朝食を食べて、晶子からお弁当と水筒を受け取る。

そして玄関で靴を履こうとした時。
綾香が脇の階段から降りてきた。
寝起きらしくジャージを着ている。
実は試験休みで学校に行かなくていいので綾香はまた寝るつもりなのだ。
「おはよう」
綾香の方から声をかけてきた。
遅くまで起きていたのであろう。
目の下を何度も手で擦りながら、
「お父さんから、映画のタダ券もらっていたんだ。関谷君、神崎さんと行って来なよ」
いきなり綾香が稔之に手を差し出す。
手には映画の券が2枚。
「いいのか?・・・ありがとう」
珍しい事もあるものだと稔之は内心意外に思いながら、券を受けとる。

「それと・・・」
綾香の声に緊張が入る。
稔之の目をまっすぐに見る。
「昨日はどうもありがとう」
慣れない事を言うので声が上ずる。

稔之は、一瞬切れ長の眼大きく開いて目を見張る。
・・・また自分の頭の中で色々考えたんだろうな
綾香の変な真面目さを、真に受けて笑い出しそうになるのをこらえながら
「気にするな。俺が自分から行ったんだ」
稔之でなくても危なっかしい綾香の行動は、手を貸したくなる。
「そう?」
綾香の表情が一気に明るくなる。
「券ありがとうな。近い内に行ってくるよ。じゃあ、行ってくる」

●(挿絵6)

純粋に綾香の気持ちが嬉しい。
稔之がドアに手を掛けた時、
「部活頑張ってね」
綾香が大きな瞳を一層輝かせて微笑んだ。
綾香の表情を見て、稔之は今朝の夢の重さが完全に溶けていくのを感じた。
ドアが閉まるまで、稔之を見つめ続ける綾香。
駅に向かう稔之の足取りは軽い。

第一章「発生する条件」終わり。


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