一学期、終業式の次の日。 市街地中心部に存在する立華大学付属高校。 敷地内の北東隅に建っている文科系クラブハウス練、東側端の写真部室内。 室内は入口から見て、右側にスチール棚があり、写真器材や部員達の作品パネルが所狭しと置いてある。 左側は暗室に続くドア。 そして中央には、会議用の長机が並べて二つ。 机では水瀬綾香と、同じ2年生の部員堀田正樹(ほりた まさき)が漫画を読み耽っている。 二人の周囲には、20冊前後の漫画単行本が散らばっていた。 どちらとも普段から相当漫画好きの様子である。 「西谷君、打ち合わせ長引いているみたいだね・・・」 綾香は、単行本から一瞬目を離し、腕時計を見た。 9時を少し過ぎている。 「じきに来ますよ。こちらも準備は終わったし、ゆっくり待ちましょう 今日の撮影も、ほとんど西谷君が撮る事になると思いますし」 堀田が男にしてはカン高い、やや早口の声で応えた。 そして、銀縁眼鏡を外してこめかみの汗をハンカチで拭う。 「それにしても蒸し暑いですね。今朝の天気予報ではこの夏最高気温を告げていましたよ」 「そう・・・」 机の端に置いてある年代物の扇風機の生温かい風が、綾香のサラサラの髪を撫で上げる。 今日は校内施設設備撮影の日。 来年度生徒募集用学校案内パンフレットに使われる写真の一部を学校側から頼まれたのだ。 ちょうど今、部長の西谷武久(にしたに たけひさ)が職員室で打ち合わせをしている最中だった。 高校から写真を始めた綾香、堀田に比べて西谷は7年近く経験があった。 中学の頃はA新聞主催の写真展で入選したことのある実力も持っている。 加えて人柄も温厚で、成績優秀な彼は教師からも信頼が厚い。 三人しかいない写真部では事実上、彼が部活を切り盛りしていた。 再び、綾香が漫画の展開に没頭しはじめて間もなく、ゆっくりと入り口のドアが開く。 ドアの隙間から一層、蝉の声が大きくなる。 「おはよう。じゃあ、これから撮影に回ろうか」 高校生にしては童顔の西谷が、穏やかな笑みを浮かべながら顔を覗かせた。 ●挿絵1 西谷の背後には背の高い、30代半ばを過ぎた、影の薄そうな男がいた。 写真部顧問。 高校では現国を担当している教師、但野 公。(ただの こう) 但野は日差しの強さに目を細めながら周囲を見回していた。 綾香と、堀田は読んでいた漫画を閉じ、器材を持って、ほぼ同時に立ち上がる。 写真部部室から南に50Mほどすすんだ所に建つ、立華大学付属高校体育館。 北西部入り口。 基礎練習を一通り終えコンクリートの階段で休憩をとっている、男子バスケットボール部の幾人かの姿があった。 立華大学付属高校運動部は、全国からスカウトして集めた体育科の学生が大半を占める。 従って運動部は何処もそれなりに実績を上げていた。 野球部はたびたび甲子園に出場し、サッカー部においては全国大会の常連校。 バスケットボール部も県内の高校の中では、強豪の部類に入る。 だがインターハイ予選決勝で、昔からこの地域で圧倒的強さを誇るH商業に敗退していた。 全国大会出場を逃した時の雪辱を胸に冬の選抜に向けて、毎日厳しい練習が行われていた。 「今日はメチャメチャ暑いな・・・」 階段に腰掛けてペットボトルの蓋を空けながら、部員の一人中田伸道(なかた のぶみち)が、広島弁のイントネーションで呟いた。 中のお茶を半分ぐらい飲むと、視界の正面に見える中庭の一点に気付く。 「稔、あれ、水瀬さんじゃないか?」 隣の切れ長の目をした、背の高い少年、関谷稔之に声をかける。 右手を首の後ろに回して首筋に流れる汗をタオルで拭いながら、中田の視線の先を、稔之は向く。 中庭では、綾香を含めた写真部のメンバーが撮影の準備を行っていた。 しかし、稔之の目線は綾香ではなく、但野で止まる。 そしていきなり笑い出す。 「中田、見ろよ。但野の麦わら、○ールのおっさんみたいだぜ」 中田も但野の方を見て、思わず吹き出す。 「但野、かなり怪しいよな。盗撮とかやってそう」 「いや、あれはイメクラにハマるタイプだと俺は思う。新聞勧誘と人妻のやつとか」と、稔之。 首を傾けながらも但野から眼を離さない。 「確かに、ちょっと思いつめてる雰囲気あるよなぁ」 聞こえないと思って好き勝手言う二人。 稔之は入学以来、頭の回転が速い中田とは特に気があった。 部活の時以外でも行動を共にする。 但野の件の会話が一段落すると、稔之は顔を上げて何気なく周囲を見回す。 ふと、部員の何名かが、綾香の姿を眼で追っているのに気が付いた。 学科が違うので部員の殆どが、綾香の「実体」を知らないせいかも知れない。 「・・・・・・」 汗が額を伝って、稔之の目に入る。 視界が一瞬歪み、蝉の声が一層大きく耳に響いた様な気がした。 顔を下に向け、タオルの端でゆっくりと眼を拭く。 ●挿絵2 「・・・・・・?」 急に黙り込んだ稔之を中田は怪訝そうに見た。 中庭では西谷が、南校舎の一部を見やりながら写真の構図を練っていた。 無機質な校舎を、ハナミズキの枝の繊細さと百日紅(サルスベリ)の紅と白の混じった花の彩りが、芝生の濃い緑に溶け込む。 かつ強い陽射しに微かな抵抗を試みるかのように涼やかなアクセントを加えていた。 西谷の頭の中では、校舎をいかに美しく撮るか。 様々な光線とアングルの組み合わせのパターンが浮かびあがる。 傍らでは堀田が三脚を組み立てている。 やがて構成が決まり、カメラを西谷は持ち直す。 同時に堀田の組み立ても終わる。 今度は三脚にカメラを取り付け、絞り※とピント合わせの調節に西谷は入る。 (※フィルムに届く光の量) 二人の後ろでは但野が黙って様子を見ている。 「西谷くーん。ここも綺麗に掃いといた方がいいよね?」 校舎に最も近いハナミズキの下で、綾香がほうきを持って声をかける。 白いキャップをかぶっているものの、強い日差しとむせかえるような暑さがつらいのだろう。 大きな瞳を何度も開け閉じしている。 「うん、お願い。掃いといて」 西谷の声を聞くと綾香はレ○レのおじさんの様にほうきを振り回し、足元のゴミを掃いのける。 綾香の姿を見て、西谷は苦笑する。 ・・・全く、変わった女の子だよな・・・ 実は綾香を写真部に勧誘したのは西谷であった。 西谷は入学して間もなく、同じクラスだった綾香の友達、萱野美樹と付き合い始める。 ある日、美樹の中学時代のスナップ写真の一つを見て、西谷は手が止まった。 綾香が中学3年の春に、律子と美樹の三人で尾道※に一泊旅行をした時の写真だった。 ※(おのみち)(広島県) 尾道駅北側の山の崖に建っている千光寺(せんこうじ)の桜の風景。 曇り空の中、丹(に)塗りの赤い本堂が荘厳とそびえており、写真の右上から八部咲きの桜が、本堂に幽玄と垂れ下がるように映っている。 西谷も千光寺に行った事がある。 しかし綾香が撮った写真は、まるでフィルタがかかったような別世界に思えた。 何処となく寂しそうで幻想的な光景に、西谷は深く惹かれる。 美樹に聞くと、友達の綾香が撮影した物だと言う。 西谷は写真部に是非来て欲しいと、綾香に頼む。 綾香に会うまで、勝手に西谷は水瀬綾香という少女を、可憐で繊細な女の子らしい性格を持つ人物と想像していた。 が、美樹に伴って現れた綾香の印象は、顔立ちは整っているが・・・ 良く言えば面白い、辛辣に言えば元気だが常識が抜けている感じを持った。 仕草も普通の女の子に比べたら、何となく怪しい。 漫画に出て来そうな動きである。 しかし、時間が経つ内に長年の人物撮影で培われた西谷の鋭い分析眼は、綾香の奇癖が表面的な物だと気づく。 綾香の表情豊かな瞳は、西谷を誤魔化せなかった。 以来、西谷は綾香の性格や仕草は、何かから自分自身を守ろうとする防壁の様に感じていた。 そして壁の向こうには最初に想像していた通り、感受性の強い少女が居るのではないかと。 西谷はこの事を誰にも言わなかった。 憶測を口にするタイプではない。 当初、男子生徒しかいない写真部へ入部する事に抵抗を感じた綾香。 だが、西谷や堀田とウマが合ったらしく、部活動にはマメに顔を出していた。 けれども、西谷の眼から見て千光寺の桜の写真のような心にくる作品はまだ無かった。 ・・・まぁ、部活を続けてくれているんだからいいか 写真の技術とは別に、1年3ヶ月という時間は、三人に仲間意識を芽生させていた。 再び、西谷はハナミズキの方に立っている綾香の方を向く。 綾香の顔が一段と白くなっている事に気付いて、西谷の思考は中断した。 声をかけようと一歩近づいた時、但野が撮影に入ってから初めて声を発する。 「水瀬、大丈夫か?」 但野の声に呼応するかの様に、綾香は立っていた場所にうずくまった。 |