Act.3「惑う心」

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綾香は落ちつかなかった。
いつもと違う稔之の様子に。

町営の温泉に入り、
民宿で稔之と二人食事をとりながら、綾香は、密かに稔之の様子を観察した。

いつもの整髪料で固めた髪形とは違い、洗いざらしの髪の毛は軽く風に流れ、
大きめの丸首のシャツから見える日焼けした首筋は、汗に光っている。
そして、食事中、やたら稔之と目線があうような気がした。
綾香は出来るだけ、視線が合わないように努力した。
「地鶏焼きって美味しいねー」
こちらの動揺を悟られないように、無意味な会話ばかりを羅列してしまう。
「ああ」
返事ついでに稔之がまた綾香を見た。
綾香は慌てて、醤油指しに手を伸ばした。
すると、偶然、稔之も醤油が欲しかったらしく、醤油指しの上で互いの手が触れた。
バッと、火でも触れたかのように手を引っ込める、綾香。
目を伏せる綾香と違い、綾香を見つめる、稔之。

・・・まずい・・・このままじゃ・・・
綾香の頭の中はフル回転していた。
稔之は夏の終わりに神崎裕美と別れて以来、誰とも付き合っていない。
当初、綾香は稔之と裕美が別れた理由をさして気にしなかった。
稔之が付き合った女の子は裕美が初めてではないからだ。
また、すぐに彼女が出来るだろうと思っていた。
しかし、今の所、稔之に新しい彼女が出来る気配は全くない。

綾香もさすがに薄々感づいていた。
稔之の自分に対する想いに。
だから、今回の旅行も遠慮した部分もあるのだ。
どうしても、稔之と二人きりになるのは避けたかったのだ。

綾香は料理を食べ終え、箸を机に置いた。
「そろそろ、部屋に戻るね」
「じゃあ、俺も」
綾香に続いて稔之も席を立った。

白熱灯が廊下をオレンジ色に照らしている。
廊下を流れる空気は春の夜らしく、冷やりと冷たい。
ペタペタと二人のスリッパで歩く音だけが、静かな廊下で発する唯一の音。
綾香は稔之の視線を背中で感じていた。
背中がむずがゆくなりそうだ。
背中をかくのを我慢して、綾香は手を前後に大きく振って歩く。
そして、自分が宿泊している部屋の前で立ち止まった、その時。
「綾香」
自分を呼ぶ、稔之の声が背後からかかった。
「私ね今から・・・」
一人でテレビを見たいから、と言おうとして、綾香は振り返った。
綾香の心臓はドクンと跳ね上がった。
稔之の自分を見る眼が、熱を帯びている。
雰囲気に押されて綾香は、稔之の表情から目をそらす事が出来なかった。
二人の視線が絡み合う。
「せ、関谷君、中でコーラ飲む?」
自分でも予期しなかった言葉が口から出た。
稔之の内に秘めた熱意に抗う事が出来ずに、綾香は、かすれた声で稔之を部屋の中へと誘った。
 
スリッパを脱いで、畳の間に上がりこむ。
部屋にはテレビが隅に置いてあり、
中央にちゃぶ台と座布団が2枚。
そして綾香のリュックサック。

「まあ、飲みねえ」
綾香は、入り口脇の小さな冷蔵庫からコーラ缶二つを取り出すと、引きつった笑みで稔之に勧めた。
自分の分は机に置く。
手を伸ばして、プルタブを引っ張るとプシュといい音がなった。
「綾香、もうすぐ誕生日だろ。これ」
綾香は稔之から小さな包みを受け取った。
複雑な予感を抱きつつ、綾香は包みを開く。
出てきたのは、プラチナ製のクロスのペンダント。
・・・ぐがー。やっぱりー。やばいぞー。この展開。
焦った綾香の頭の中は、既にパニック状態になっていた。

「こ・・・これは結構な物を・・・」
なれぬ状況から、綾香の言葉遣いはぎこちなさを通り越して、滑稽だった。
腰も引けている。
対して稔之は熱のこもった視線を綾香に向けたまま。
綾香は後ずさりしながら
「テレビでも見よっか」
と後ろ手でテレビのスイッチをつけた。
丁度、ローカルニュースを放映している。
アナウンサーの声が少しずつ蒸し暑くなっている部屋に流れ出した。
綾香はすぐにしゃがみ込み、テレビの方に向き直り、画面を食い入るように見始めた。
間近で見ているのに、内容はほとんど頭に入らない。

一方、稔之は心の中で大きく溜息をついた。
綾香は相当緊張しているみたいだ。
そして、自分にかなりの警戒心を抱いている。
・・・付き合った経験ねーから、仕方ないか・・・
が、様子を見る限り、完全に拒絶された訳ではない。
可能性はあるかも知れないのだ。
思い切って、一気に決めてしまうか・・・
恋愛経験のない綾香でも、自分が部屋に来た意味は分っているだろう。
いきなり、こういう段階に持っていくのは性急だと思う。
しかし、稔之は経験から奥手な女の子程、この方法に弱い事を知っていた。
勿論、状況が許せばの話だが・・・
綾香の短パンから伸びた形の良い白い脚が、自分の視界の中に入る。
一瞬、体の下の方が熱く疼いた。
とりあえず、自分の体の熱気を冷ます為、
稔之は綾香の横を素通りして、ベランダの方へと歩いていき、窓を開けた。
山奥特有の森林の匂いと、春先の冷たく新鮮な夜風が逆に心地よい。
外灯がない為、ほとんど何も見えない暗闇を眺めた。

俺がこれから起こす行動は、綾香と自分を幸せに出来るだろうか?
拒絶されるかも知れない恐怖。
綾香との関係が大きく変わる不安。
そして、甘い予感と自分の中の欲望。

人は一度に色々な思いが交錯する。
現に稔之の心の中も、最終的な決意に向かう為、様々な感情が入り乱れ始めた。

綾香はテレビの音など耳に入っていなかった。
さっきから聞こえるのは、
段々大きくなっていく自分の鼓動。
膝の裏側は汗をかいてじっとりと濡れていた。
綾香の全身は稔之の気配を感じ取る事に集中している。

私はどうすればいいの?
自分自身に問い掛けた、心の中の声に応えたのは。
『水瀬さん、
 自分の事は自分で決めるべきだろう?』
厳しさと強い意志を秘めた、渡り廊下での亮哉の声。

・・・旅行先まで来て、彩賀君に頼るなんて・・・
思わず、自嘲してしまう綾香であった。
が、綾香の決意は固まった。
今の時点で稔之の想いを受け入れる訳にはいかない。
亮哉と交流を続けていきたいのなら、尚更だ。

綾香は意を決して、稔之の背中に目線を向けた。
途端に、綾香は地面がぐらりと揺らぐような眩暈を感じた。
●挿絵5
そこには、綾香が知っている幼馴染の少年の姿はいなかったのだ。
変わりに存在したのは。
自分を心から渇望している、男であった。
稔之は相変わらず、窓の外を見つめている。
しかし、稔之の背中は、綾香の存在を意識していた。
そして、鍛えられた稔之の長い手足は、綾香の鼓動を一層高鳴らせた。
脳裏に浮んだ、亮哉の姿が一気に霞む。
・・・私が必要としているのは、彩賀君じゃないの?
綾香は愕然としながら、自分の確かめようとする。
頭では分かっている。
それなのに。
それなのに。

今、自分は、稔之に傍に来てもらいたいと望んでいるのだ。

体の火照りをほぐそうと、綾香は両手を畳の上に置いた。
そして。
足を、稔之の方へと滑らすように伸ばした。
シュッと畳をこする音がした。
『駄目!このままじゃ』
自分の意思の弱さに最後まで抵抗する。

稔之は、畳をこする音を背後から、聞いた。
綾香の葛藤がピークに達したのだ。
今しかない。
稔之は、振り向いた。
その時。

ガラッ
入り口と畳を隔てる、障子が開いた。
「ウワッ」
綾香と稔之は驚いて、お互い左右反対に飛び退る。

畳の間に入ってきたのは・・・
知らない老人だった。
「ありゃ、こりゃ、部屋間違えちゃったが」
老人は宮崎訛りの口調で呟きながら、周囲を見巡らせた。
「マスさーん。ワシ等の部屋はこっちちゃが」
同年代のお年寄りらしき声が廊下から聞こえる。
大崎増男。通称マスさん。年は74歳。
都城(宮崎県南部)で農業を営んでいる。
今日は農協組合の慰安旅行で、高千穂にやって来た。
「こ、こりゃ、申し訳ありませんでした」
若干、貧相だが人の良いマスさんは、頭を下げると部屋を出て行ってしまった。

・・・一体、何だったんだ・・・
再び部屋は静まり返る。
が、綾香は突然の闖入者のお陰で冷静さを取り戻していた。
「関谷君。明日も早いからもう寝ようよ」
明るく言いながら、稔之の背中を押して、部屋の外へと追いやった。
稔之は何か言いたそうな表情をしていたが、綾香はわざと無視した。
そして、ドアの鍵を閉めた。
・・・これで一件落着かな・・・
急に力が抜けて、畳の間に倒れこむ。
再び、稔之の背中を思い出して、心臓の鼓動がまた早くなる。
・・・ちょっとヤバイかも・・・
この日以来、綾香は時々、この夜の出来事を思い出すようになった。

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