Act3 「何故、哀しいの?」

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一時間近く経った、正午前。
今日の活動を終えたバスケ部員十数人が、内扉から次々と賑やかに吐き出されていく。 
靴を履いて玄関を通り過ぎる部員達は、隅で横たわっている綾香に一瞬眼を止めるものの、すぐに見てはならないものを見たような表情し顔を背けて外へ出て行く。
ほとんどの部員達が出て行った直後、ガラス扉の入り口に栗色の長い髪をした少女が姿を現す。
少し痩せすぎだが、遠目から見てもスタイルが良い。
稔之と付き合っている、神崎裕美だ。
丁度、稔之を迎えに来た所だろう。
・・・あれは水瀬さん?

心配そうに玄関へ入り込んだ途端、裕美は綾香に目がいく。 
すぐさま、綾香の様子を窺う、裕美の眼は焦りの色に変わった。
綾香はベンチの上で熟睡していた。
表情も先ほどとは違い、気持ち良さそうだ。
しかし裕美の眼は綾香の脚に釘付けだった。 
綾香のスカートは膝上半分までめくれあがり、白い右足が剥き出しだったからだ。
「水瀬さん、スカート。スカートがっ」
裕美は慌てて駆け寄ると綾香のスカートを引っ張り降ろす。
「ん・・・神崎さん?」

裕美の声に反応する綾香。
気だるそうに眼を開いてゆっくりと起き上がり、ベンチに腰掛ける。
「水瀬さん、一体ここでどうしたの?」
様子を気遣いながら裕美は、持っていたタオルを綾香に差し出す。
「ありがとう。ちょっと気分が悪くてここで寝ていたんだ」
タオルを受け取りサラサラの髪を持ち上げて、寝汗で濡れたうなじを拭う綾香
●挿絵4
裕美から香るフローラル系のコロンの匂いが、綾香の痺れた感覚を醒ましていく。
心の中に清涼感が広がる。
「大丈夫?」
「もう大丈夫だよ。いつも、色々と悪いね。神崎さん」
普段ソーイングセットを携帯していない綾香は、裕美に制服のボタンを付け直してもらった事がある。 
裕美の手入れが行き届いた爪を、綾香は気に入っている。
綾香がタオルを返そうと裕美の手を見た時、背後から
「何、お前はここで寝てんだよ」
と、微かに怒気を含んだ声がかかった。

二人はビクッと一瞬背中を震わせ、体育館の中を振り返る。
内扉の入り口に何時の間にか稔之が立っていた。
顔を少し紅潮させ、切れ長の眼はいつもより細くなって綾香を睨む。
中田を始め仲の良い部員達は、稔之の不機嫌を察知して先に帰っていた。

「暑くて、ここで涼んでおりました」
綾香は下を向いて小さな声で応える。
裕美の前で怒られて、少し恥ずかしかったのだ。
「だからといって、こんな所で横になってんじゃねーーよっ」
稔之は早足で綾香に近寄ると、軽く綾香の足の裏を靴ごと蹴り上げた。
「痛っ!」  
綾香はさすがに一瞬ムッとする。
稔之は何故、相当苛立つ程怒っているのか?
「稔之、ちょっとひどいんじゃないの?」 

稔之の行動に一瞬驚いた裕美だったが、気を取り直してさすがに咎める。 
さらに何か言おうとする裕美の前に綾香は、腕を出して制すると、
「私が悪いんだから、気にしなくていいよ。そろそろ部室に戻るし・・・」 
雰囲気を険悪にさせた申し訳なさを二人に悟られないように、綾香は元気よく立ち上がる。
が、急に立ち上がった為、綾香は立ち眩みを覚えて思わずよろめく。
体のバランスを取ろうとした足は、もつれて上手く動かない。
咄嗟に稔之は、背後から両腕で支えるように綾香を受け止める。

裕美は稔之の姿を見た途端、体に電流を受けたような衝撃を受ける。
綾香を支える腕ではなく、綾香を見つめる眼に。
先程まで占めていた怒りの気配は消え失せていた。
綾香の姿を映した稔之の眼は壊れやすい大切な物を見る様。
そして・・・何処か哀しそうな表情をしていた。
  ●挿絵5
胸に火をねじ込まれたような痛みを裕美は覚える。
が、すぐに心の中は水紋のように疑問が広がった。
・・・何故、哀しそうな表情をするの・・・?

綾香は自分の背中から稔之の鼓動を微かに感じる。 
姿勢を正そうと右手を伸ばして、稔之の左手を掴む。
手からお互いの体温を感じ取る。
熱さは瞬く間に二人の体を駆け巡る。

感覚は、感情や言葉の速度を超える。
すべて一瞬の出来事。
無意識の世界。

綾香は、一度きつく目をつむると瞳を一層大きく開く。
少しベンチで眠っていたせいか、体は先程の状態が嘘の様に軽い。
掴んだ右手で稔之の腕を振り切って、姿勢を立たせると一歩離れた。
綾香の姿を見て、稔之も元の憮然とした顔に戻る。
稔之が言葉を発しようとするのを遮るように、綾香は稔之の方を素早く振りかえる。
「色々、迷惑かけてごめんなさい」
頭を軽く下げる。
不思議と心は穏やかだ。 

「ああ・・・」 
今になって初めて稔之は、自分の怒りに疑問を持つ。
・・・俺は一体・・・? 
綾香にかける言葉が見つからない。
声が喉に引っかかる。
手に残る綾香の体温が、稔之の体の奥で微かに燻る。
しかし、綾香はもう稔之の方を見ていなかった。
裕美の方を向くと、屈託のない笑顔で、
「色々と心配してくれてありがとう。神崎さん」
と明るい声で話し掛ける。
引き込まれるような笑顔を見て裕美は、嫉妬していた自分を恥じて、顔を赤くする。
「水瀬さん・・・」
裕美の声に反応して綾香の眼差しが、一層優しくなる。 
綾香は白いキャップを再び被ると、
「じゃあね。二人とも」
呆然としている稔之と裕美を残して綾香は、元気よく体育館玄関を駆け足で出ていった。

午前中の撮影を終えた西谷と堀田は、器材を運びながら部室へと向かっていた。
「水瀬さん大丈夫かな?」
「体育館に運んだ時、関谷君が度々中から気にかけていましたからね。大丈夫ですよ」
稔之に比べて部活と校舎が同じ二人は、普段から綾香と接する機会が多い。
しかし、彼らは綾香の行動に振り回される事は殆ど無かった。
西谷と堀田からすれば稔之の方も構い過ぎなのである。
実に、彼らはよく心得ていた。

「そういえば・・・」
西谷が思い出したように言った。
「関谷ってバスケ相当上手いよね。何故、H商業に行かなかったんだろう?」
西谷は1年の時、OB冊子作成の関係でバスケ部の試合を撮影した事がある。  
ファウル覚悟でぶつかってくるガードを、挑む視線を投げかけながら振り切り、シュートをねじ込む稔之の気迫にレンズ越しの西谷は思わず鳥肌が立った。
「聞いた話なんですけどね」
堀田の声が一段、低く小さくなる。
「関谷君は中学の時、傷害事件を起こして他の高校は受け入れてくれなかったみたいなんですよ」
「ふーん。まぁ、色々あったんだろうね」
大して驚く様子でもない西谷。
この学校では他校を放校になった生徒でも、相応の実力と多額の寄付金を積めば転入する事ができた。
口にはしないが殆どの生徒が知っている。
「あくまでも噂なんですけどね・・・」 
堀田もそれ以上は言わない。

会話の止まった西谷と堀田の耳に、元気な足音が響く。
「二人とも。さっきはごめんねー」
強い日差しの中を走ってきた綾香が二人に追いつく。
西谷と堀田は、同時に振り向いた。
「気分はもういい?」
「大丈夫ですか?無理しないで下さい」
「うん。大丈夫。午後からはもっと手伝うね・・・」
三人は仲良く部室に入っていった。 

午後8時。
綾香の家の最寄りの駅。
電車から降り立った綾香は、両手を少し前にたらして疲れた体を引きずるようして帰路へと向かっていた。
しかし、心の中は充実感に満ちた心地よさで一杯だった。
日の沈んだ住宅団地の何処からか、蝉の鳴く声が耳に入ってくる。

午後からの撮影では思い切って、自分が撮る事を西谷に申し出た。
西谷は最初、意外そうな顔をしたものの快く承諾する。
綾香は西谷の指導の元、撮影を進めていく。
西谷は穏やかな口調ながらも、パンフレットの撮影を引き受けた責任もあるのだろう、今までより厳しく指示をする。
綾香の熱意に影響を受けたのか、途中から堀田も撮影に加わっていく。
慣れない二人の撮影で終了時間は、予定を大分過ぎてしまった。
だが、写真部三人の姿を見て顧問の但野はむしろ嬉しそうであった。

やがて自分の家の前に辿り着く。
そして道を隔てた所に建つ、稔之が住んでいるアパートを見やる。
道のすぐ傍、一階の一番東側が稔之の部屋だ。
●挿絵6
綾香は稔之の部屋の中には、5〜6回しか入った事がない。
(うち2回は照明器具強奪の件。(一話参照))
稔之は既に帰って来ている様子で、ドアの横の小さな窓の隙間から明かりとテレビの音が漏れてくる。
・・・これからはもっとやる気を出して、撮影に取り組むね
綾香は、稔之の怒りの表面的な部分だけを理解した。
あと2週間もすれば綾香と稔之が、直した公園の樹も周囲の風景に溶け込んでくるだろう。 
帰り際、公園撮影時には西谷と堀田も立ち会うと約束してくれた。
・・・必ず、納得する作品を撮ってみせるから
稔之の部屋がある辺りを決意を込めて見つめる、綾香。
暫く佇んでいた綾香は、ゆっくりと家の門扉を開けて中に入っていった。

第二章 「立華大学付属高校写真部」 終わり。      
           

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