Act.3「幸せって何だろう?」

目次へ Act.2へ あらすじへ キャラクター紹介へ


翌日の放課後。
忘れてきたバインダーを取りに来た綾香は、病院の雰囲気がいつもと違って落ち着きが無いのを感じ取っていた。
「あの・・・何かあったんですか?」
丁度、顔見知りの看護婦が通り過ぎたので、綾香は何となく尋ねた。
綾香に声をかけられた途端、看護婦は、驚きの表情を隠さず応えた。
「あなた・・・!彩賀君の・・・!」
「何かあったんですか?」
看護婦の尋常でない様子に、綾香は不安になりながらも声を押えて尋ね返した。
「あ・・・その・・・」
看護婦は言うべきかどうか躊躇している様子だ。
「私は誰にも喋りません、教えてください」
看護婦の次の言葉次第ではパニックに陥りそうな自分を叱咤しつつ、
綾香は声に真剣さを込めて、看護婦に詰め寄った。
綾香の覚悟を見た看護婦は、ようやく綾香に事態を告げる気になった。
「彩賀君、昨日の夜から姿が見えないのよ」
看護婦は絶対に周囲に聞こえてはならないといった感じで、
声を出来るだけ小さくして、綾香に伝えた。
『・・・・・・!』
綾香の全身は凍りついた。
この間病室で見た、亮哉の弱気な表情を思い出す。
・・・失踪してしまう位、思いつめていたなんて・・・
看護婦は続けた。
「今、彩賀君のご両親があちこち心当たりを捜しているみたいだわ。
 警察にはまだ届けていないみたいだけど・・・
 貴女は何か心当たりあるかしら?」
綾香は小さく首を振った。
「・・・病気の事は秘密にしておいて、
 一応、彩賀君の友達の所をあたってみます。
 今日は、大変そうだから、私はとりあえず帰ります。
 ・・・何かあったら、私にも伝えて下さい・・・」
連絡先を看護婦に伝えると、綾香は病院を後にした。
まだ10月の終わりではあったが、日の落ちた街中は思うより寒かった。

帰宅した綾香は玄関のドアを開いた。
途端に、ビーフシチューの温かな匂いが綾香の鼻孔に入り込んだ。
今まで、寒々としていた心の中が一気に落ち着きを取り戻していく。
自分の部屋に上った綾香は、制服を脱ぐ気力もなくそのままベットに倒れこんだ。
●挿絵4
彩賀君は一体何処に?
・・・ひょっとして・・・
綾香は以前、写真部室で亮哉と高知に行く約束をした事を思い出した。
・・・彩賀君は、足摺岬に行ったんじゃ・・・?
自分の心臓の鼓動が、緊張で大きく高鳴っていくのを感じた。
確証はない。
しかし、行ってみる価値はありそうだ。
綾香は学習机の上の置時計を見た。
午後七時前。
高知に行く夜行バスは、まだあるはずだ。
綾香はベットから勢いよく起き上がった。

用意してあった夕食をもどかしく思いながら、食べ終わり、
私服に着替えると綾香は、本屋に行ってくると両親に伝えると外に出た。
そして、綾香が駅に向かって駆け出そうとした時。
「こんな夜遅く、どこに行くんだよ?」
ちょうど、稔之がバイト先から帰り、バイクをアパートの駐輪場に仕舞い込んだ所であった。
そこで、家を出て行く綾香を見つけ、道路越しに声をかけたのである。
「・・・ちょっと、本屋に・・・」
綾香の声はぎこちなく上ずった。
稔之と目を合わさないように、している。
稔之は、綾香が嘘をついている事を見抜いた。
自分に対する拒絶の態度からして、綾香の好きにさせておくのが一番良いということは、稔之も分っていた。
しかし、綾香の蒼ざめた表情に、いつもとは違う緊迫さを稔之は感じ取った。
稔之に構わず駆け出した綾香の腕を、稔之は走り寄って掴んだ。
「本当は何処に行くんだ?」
腕を掴まれた綾香は、冷ややかさを装って言い放った。
「稔之には関係ないよ」
「そうかも知れねーけど、お前に何かあった時、
 心配するのは、俺が世話になっている
 おじさんとおばさん達だ」
これ以上、綾香に嫌われたくないという苦しみに耐えながらも、稔之は反論した。
「急いでいるの、放して!」
声を上げて稔之の手を振り切ろうとする、綾香。
稔之に対する反発からだけではない。
急いで、駅に行きたいのだ。
「・・・声を上げるな」
周囲は住宅街。
下手をすれば、何事かと近所の人が訝しがって外に出てくるかも知れない。
ふてくされた綾香の手を放さないまま、稔之は自分のアパートの中に綾香を引き入れた。

ドアを閉めると、狭い玄関に立ったまま稔之は、綾香にもう一度尋ねた。
「何処に行くつもりなんだ」
綾香は、観念して告げた。
「彩賀君、突然居なくなっちゃったの。
 ・・・でも、心当たりがあるから
 そこに行ってみようと思って・・・」
綾香の伏せた瞳が、微かに潤んできた。
稔之は、一瞬驚きに顔を引きつらせたが、再び綾香に尋ねた。
「心当たりっていうのは何処だ?」
こうなればすべて言ってしまおう、綾香は決意を固めた。
「・・・高知県の南端にある足摺岬」
稔之は、少しの間言葉を失った。
「そーゆーのは、警察に届けて任せておけばいいじゃねーか
 第一、そこに居るかどうか分かんねーし
 お前が行ったって、どうするんだよ?」
稔之の意見は間違っていない。
しかし、自分の行動に意味が無いような言い方をされた綾香は、思わずカッとなった。
「でも、私は行きたいの!
 ・・・もういいでしょ、行かせてよ!」
再び、必死で手を振り切ろうとする綾香。
「俺は、お前が心配なんだよ!」
終始、感情的な綾香につられてか、稔之もついに声を上げた。
綾香は、黙って稔之を睨み返す。
稔之もいつも通り睨み返すと綾香は思っていたが、違った。
哀しそうな眼で、綾香を見つめていたのだ。
「・・・確かに、俺の『心配』は、お前を離したくないからだ。
 今まで、俺が綾香に世話を焼いていたのは、
 傍に居て欲しいからだ。
 でも、俺は、綾香しか居ないんだ!
 綾香じゃなきゃ駄目だったんだ!」
稔之の脳裏に母親が目の前から去った日の出来事が、鮮明によぎった。
母親は去る理由を、稔之の父親との不和だと自分に告げた。
しかし、幼い稔之にはそれは自分を捨てる為の都合の良い言い訳に聞こえたのだ。
だから、稔之は自分に対する裏切りには非常に敏感になった。
プールでの事件で綾香を助けなかったのも、
綾香の裏切りに対する幼稚な報復だった。
同時に、常に誰かを拠り所としなければならない自分が今も許せない。
だが、頭では分っていても、自分の心は綾香を必要としている。
『綾香しか居ないんだ』
綾香を激しく想う心と自分の弱さを、声にする事で自分の目の前に突き出した稔之であった。
「・・・稔之」
綾香の全身から抵抗の気配が消えた。
稔之の迷いと葛藤を綾香なりに受け止めたのだ。
綾香は静かに手を下ろすと、今度は優しく瞳で稔之を見つめ返した。
「稔之が私の事、大切に思ってくれているのは分ってる。
 何も出来ない私を、稔之はずっと支えてくれたよね。
 私も稔之が居たから、やって来れた部分もあったと思う。
 だけど・・・だけど・・・」
綾香の心の中には、いつの間にか稔之ではなく、亮哉が住むようになっていた。
「私は、彩賀君が好きなの。
 だから、彩賀君を自分の手で探したい。
 彩賀君が困った時、辛い時。
 私が一緒に悩んだり、苦しみを和らげたい。
 ・・・勿論、稔之の事、本当は嫌いじゃない。
 だけど、私は稔之が一番好きではないから。
 ・・・私も稔之が好きだったら、どんなに良かったかと思う。
 でも、お互いが一番好きじゃないんだったら。
 それは、本当の幸せじゃないんじゃないかな・・・」
諭すように言う綾香の表情は、あの日の母親の面影と重なった。
●挿絵5
『本当の幸せじゃない』
それでは、本当の幸せとはなんだろう?
実は、人が思い描く幸せは、人それぞれ全く違うのだ。
そして、その幸せに辿り着く手段も人によってばらばらだ。
だから、人は互いの幸せを求める為に衝突する。
それは、人間という存在がこの世に居る限り、無くならないだろう。

稔之の母親は、稔之を『裏切った』のではない。
稔之の母親は、稔之達と一緒に居る事よりも、
あの男と共に人生を歩んでいく事をより幸せと思ったから、
それを選んだだけの事である。

そして、自分がどんなに綾香を好きでも
失いたくないと大切に思っていても。
綾香の心も、人生も、綾香の物。
綾香の幸せは、綾香自身が決めていく事なのだ。
そして、稔之の幸せも
稔之が、自分の意志で選び取り掴んでいくものなのである。
人は自分の為に生きている。
他人は、自分の幸せを受け止める為に存在している訳ではないのだ。

俺は、綾香を好きだ。
しかし、俺と一緒に居る事が綾香の幸せでないのなら・・・!
「綾香、俺がバイクを出すから、それに乗れ。
 夜行バスが出ている0駅に行くなら、
 その方が早い。
 おじさんとおばさん達には、俺から上手く言っとくから
 心配はするな。
 ただ、彩賀が高知に居ようが居まいが、明日の夜には帰ってろ。
 お前がバタバタ動き回る事で、かえってややこしくなる事もあるんだ」
稔之は手を離すと、綾香の両肩に手を置いた。
綾香は突然の稔之の変化に戸惑いを見せたが、すぐに大きく頷いた。

稔之のバイクに乗った綾香は、
今まで乗った中でも一番スピードが出ているような気がした。
まるで、自分の悲しみを消し飛ばすかのように。

間もなく、O駅周辺に二人は辿り着いた。
バイクから降りるなり、
綾香は、夜行バスの停留所ではなく、
切符を販売している、旅行会社へと走っていく。
「まだ、開いていてよかった」
が、急に立ち止まると、くるりと稔之の方を振り向いた。
「稔之、ありがとう」
旅行会社の蛍光灯が眩しく、綾香を照り返す。
稔之に綾香の姿が眩しく見えたのは、けっして光のせいだけではないだろう。
そして、稔之には綾香がもう届かない存在になってしまうような儚さを感じた。
「彩賀いると、いいな」
稔之は涙を堪えて、言った。
うん、と綾香は頷くと旅行会社の中へと走りこんでいった。
稔之は、ぐるりと方向を変えて再び、エンジンをふかしはじめる。
家に向かう途中、稔之の眼からは涙が溢れて止まらなかった。

切符を買った綾香は、停留所に止まっていた夜行バスに乗り込んだ。
まもなく、バスは発車した。
窓越しから、流れる街並みを見つめながら、綾香は足摺岬に亮哉が居る事を祈った。
・・・彩賀君、どうか無事でいて・・・!
既に掌に握ったハンカチは汗で湿っていた。
●挿絵6
第十章 「self-sacrificing spirit」終わり

前ページへ    目次へ  最終章へ 感想等はこちらへ(無記名化)